韓国レズビアン・ネットワークに学ぶ!(2)

前回のイベント(去る10月11日)に載せた資料の続きをご紹介します。
WOMのメンバでOUTの監督の一人でもあるイ ヨンさんには9月に私(つな)が韓国にお邪魔した時に初めて会うことができた。短パンにTシャツ、ショートヘアで黒ぶち眼鏡の姿に一目で信頼できる人だと感じた。
第一印象通り、話していくうちにイさんをはじめメンバの誠実さと、腹を据えた安定感、孤独と強さにぐいぐいと引っ張られていった。今回ご紹介するのは監督のインタビュー。イさんがみすえた韓国のレズビアン事情、映画を作るきっかけについてまとめられたデイリーサープラスの記事からです。
イ ヨン監督インタビュー その1ー前半
「レズビアン検閲は、国家保安法よりきびしい」
2003年、『資本論』『マルクスのために』などの書籍を所持していた建国大学生2人が、国家保安法違反容疑で逮捕された。
これらの書籍は、国家保安法(*翻訳者注:反国家活動を規制するという法案。憲法違反の法律として廃止が議論されているが、まだ廃止されていない)によって反国家的書籍に指定されているが、現実には書店を通じて流通しており、大学図書館にも堂々と備えられているし、大学の講義教材としても用いられている。それを、ただ持ち歩いているという理由だけで「マルクス主義? 資本論? お前は共産主義者だな」と極端に拡大解釈した公安は、市民社会から糾弾されると同時に、市民たちの物笑いの種となった。思想の自由を、公安機関のご都合主義的な理屈で規制したからだ。
そして2005年現在、韓国の中学校・高等学校において、思想検閲に匹敵するもう一つの検閲が大々的になされている。
「短髪? ダボダボのズボン? お前はレズビアンだな。マイナス10点」
これはまさしくセクシュアリティ検閲だ。すべての人には生まれながらに、生命・自由・平等などに関する基本的人権を持っているのだから、セクシュアリティが多数派と異なっている若いレズビアンたちの人権を侵害できる理由はない。しかも学校と教師によって都合よく設定された基準で。
セクシュアリティがほかの生徒たちと違うという理由だけで、教師と親たちによって強制的な転校を推し進められ、ブラックリストに掲載され、教師らの監視の対象になり、結果的に家庭からも学校からも孤立させられた生徒たち。最初のうち、かのじょたちはこの理不尽な差別と検閲に対する怒りを、自らのか細い腕に刃物をあててリストカットすることでなぐさめていた。
しかし、そのような自傷行為ではまったく怒りを抑えることはできなかった。気の進まないことは努力したからといってできるようにはならないからだ。そこで、ひとりの生徒はビデオカメラを持ち、またある生徒はそのカメラの前に立った。
差別してはいけない、個々の人格は尊重しなければならないと教える学校が、セクシュアリティに関しては検閲を通じて差別と人権侵害を率先して行なっているという現状を、ティーンエイジャーたちは自らの言葉と映像表現で吐露した。
去る6月7日(2005年)に幕を閉じたクィア文化フィルムフェスティバルで、韓国短編セクション1の最終プログラムとして上映された、フェミニスト・ビデオ・アクティビズムWOM監督作品 「Lesbian censorship in school(学内レズビアン検閲)」は、10代レズビアンたちの生々しい怒りの声でその実態を衝撃的に告発する。
●レズビアン検閲、怒りの代わりに悲しみが先に伝わった
クィア文化フィルムフェスティバルの最終日となる 7日の午後遅く、「Lesbian censorship in school」の監督イ ヨンさんと、弘益大学近くのカフェで会った。
もちろん、セクシュアリティを検閲する学校現場の実態を知るには、10代のレズビアンたちに直接会ってその声を聞くのがいちばん良い方法だ。
しかし、記者がいくら気をつけても、取材報道のプロセスでアウティング(outing:自分の意志と関係なく他人によってセクシュアリティが公開されること)の危険を排除することはできないから、10代のレズビアンたちに直接会って取材したイ ヨン監督に、かのじょたちに代わって学校の現状を話してもらうよう依頼した。
ーー10代のレズビアンたちに対する学校検閲の現状は、一般にはほとんど知られていない素材だったでしょう。なぜそのことを作品のテーマとして取り上げたのですか?
“「Lesbian censorship in school」は、去る 5月に開かれた人権映画祭事前制作支援作です。このとき、青少年や児童の人権をテーマにした映画制作の提案を受けました。以前からレズビアンに関するドキュメンタリー映画を準備中でしたが、10代レズビアン(青少年ならぬ“青少女”)たちの話を、今でなければいつ取材して映像化できるかわからないので、受諾しました。
制作のため、取材初期には若いレズビアンカップルたちに会って、カミングアウト(coming out:同性愛者であることを公表すること)とアウティング、同性愛に対する社会の偏見などによって起こる問題について、話をしようと思いました。
かのじょたちに会って取材するうちに、学校現場では異性愛規範に則ってレズビアンを取り締まり、検閲しているという話を聞くようになりました。馬鹿馬鹿しい取り締まりだけど、かのじょたちにとっては深刻な問題なので、企画の方向を変えていきました。そうしてできあがったのが「Lesbian censorship in school 1(OUT:レズビアンの何が悪いの?)」でした。”
ーー映画には衝撃的な場面がたくさんあります。ただダボダボのズボンを履いて短髪にしているだけで、教師らによってレズビアン検閲の対象にされますね。またレズビアンであることが知られた生徒たちとは一緒に通学しないという覚書にサインすれば、教師がテーマパークに連れて行ってくれるという懐柔もしています。映画の制作期間中は、どんな状況だったのでしょうか?
“事前調査や取材の段階では、「Lesbian censorship」が具体的な作品としてどのように成立するか想定できませんでした。手をつないだだけで減点、髪が短いと減点、一緒に通学しても減点……取材しながらそんな赤裸々な現実をかいま見たら、「これ、すごく問題じゃない?」と腹立たしくなるよりは、とても悲しくなりますね。
学校という場そのものが問題じゃないでしょうか。ひとたびその内部に入れば、人権尊重を訴える市民社会の目などが一切排除される閉鎖的な場です。そんななかでどこにも相談できずに追いつめられるかのじょたちを見て、ひどく驚いたし、悲しくて胸が痛みました。”
ーー映画の半分以上は「天才(チュンジェ )」と呼ばれるレズビアンの撮影によって進行しています。実際、レズビアンであるために学校の検閲を受け、監視されている「天才」にカメラを持たせた理由は何ですか? どうしたってアマチュア・カメラマンだから、映像の品質低下が心配になりませんでしたか?
“心配にはなりましたが、当事者が直接自分の話をすることこそが、最大の勇気づけになり、かのじょたちの力となり、その力を発揮できるだろうと判断しました。それに、アウティングの問題が深刻だった事情もあります。私がいくら気をつけてかのじょの望む方法で撮影しても、結果的にはまったく違うものにすることだってできるんです。
それで、「あなたが撮影したいやりかたで、話したいことを話してごらん」と言って、「天才」に直接カメラを持ってもらいました。プロの監督作品のように映像的に観るに耐えるものにならなくても、かのじょ自身がしたい話をしたいやりかたで直接行なうのが重要だと思いました。もちろん 事前にレクチャーもしたし、毎週一度は会って、撮影分を見ながら話し合いましたが、かのじょは基本的にセンスのある子です。
映画を見れば分かりますが、25分間まったく退屈させられることはありません。ひたすら空を映すワンカット、自分の足、人形、屋上の風景、顔を露出させずに友人にインタビューする場面、黒一色の画面など、シーンが少なく、撮影範囲が限られているにもかかわらず、退屈ではありません。
幼いころからそばに置いているクルスンイと名づけた人形を画面に映し、「腹が立つことがあるたびに、この子に八つ当たりする」と言いながら申し訳なさそうにしているかと思うと、突然リストカットした腕を見せながら心の傷について話す。これらは「天才」がそうしたいと思ったからこそできることです。誰かがかのじょに演出をつけて強制してできることではありません。本人が直接伝える話は、誰も予想できないような映像と直面することで、何よりも切実に伝わります。”
<後半につづく>
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