ズズ・エンジェル

[いぬのえいがひょう] vol.002
ズズ・エンジェル (2006) Zuzu Angel
軍事独裁政権時代(1964〜1985)のブラジル。
「ズズ」の愛称で知られる一流ファッション・デザイナー、エンジェル・ジョーンズ。ニューヨークでのショーを終えたばかりの多忙な彼女のもとに、反政府運動に身を投じていた息子スチュワートが逮捕されたという連絡が入る。しかし、警察や軍を訪ねても、どこにも彼は留置された記録はないと言われる。ところが、スチュワートと同じ場所に捕らわれていた匿名の人物からの手紙で、スチュワートは軍によって拷問にかけられ、殺害されたことを知る。ズズはスチュワートを奪われた激しい怒りと悲しみに、政府と戦う決意を固める。それまで彼女のデザインを彩っていた美しい花や小鳥は、血にまみれた十字架や檻に閉じ込められた太陽など、メッセージ性の強いものに変わっていく。積極的に発言するようになった彼女に、軍は警戒を強めていく。
恐怖政治下の抵抗運動を緊迫感溢れるタッチで描きます。
『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』のブラジル版といった印象を受けました。

ズズさんを、この映画ではじめて知りました。ブラジルでは有名なかたらしいです。ズズさん、かっこいいです。
行動のかっこよさに加えて、ファッション・デザイナーだもの、かっこよく見せるのはお手のもの。
私利私欲のためだけに使わない美貌は、かっこいい。
ズズさんが、自分の店の前をのほほんと歩く隣人に、「これを読んで! あなたの生きている国の現実はこうなのよ!」と抗議文を叩きつける場面があります。
「それはやりすぎよ」とたしなめられたズズさんはこう言います。
「自分もかつてはああだった。自分のすぐ近くに被害が及ぶまで、自分には関係ないことだと思っていた。日々の生活のほうが大事だと言い訳をしていた。でもそれは間違っていた」
これと同じ内容の言葉、社会悪を描いた作品で、よく聞きます。
第二次世界大戦のころを描いたドイツ映画やイタリア映画。アパルトヘイト下を描いた南アフリカ映画。赤狩り時のアメリカ映画。社会の権力構造をテーマに据えたSF。そのあたりで、たいてい挿入される定番の描写。
「隣のユダヤ人の店に対する嫌がらせを見ても、見ぬふりをしていた。だって自分には日々の生活がある。そうして見て見ぬふりをしていたことが取り返しのつかない事態を招いた」といった言葉。
これまたよく言われるこの定番の言葉、「愛の反対は憎しみではない、愛の反対は無関心である」や「知らなかったことは罪ではない。知ってから知らないふりをすることが罪だ」などと同義でしょう。
見て見ぬふり、目の前に見せられても、見なかったふり。社会悪が蔓延する最大の要因はつねに、「罪のない一般市民」の生活の優先」です。決まって「罪のない」と言い張ります。
上記の定番の言葉は「『生活の優先』を罪のないものとすることが、最大の罪です」と言っています。
定番となるほど世界中で幾度も繰り返し語られ続けているのに、「罪のない一般市民」は相変わらず「罪のない」を言い続けています。
「愛の反対は憎しみではない、愛の反対は無関心である」、「知らなかったことは罪ではない。知ってから知らないふりをすることが罪だ」と言われてもなお、「日々の生活を懸命に生きているだけなのがなぜ悪いの?」と言い続けます。
その「だけ」なのが悪いと言われているというのに。
「A行為はこれこれこういう理由で犯罪です」 と言われ、「私はAをしているだけ。悪くない」 と返すのは、返答として成り立っていないこともわからないのでしょうか。
そしてこの映画、いちおうは、母が子を奪われて真実に目覚める、という母子関係が話の中心です。
けれども、それを母と子の関係の枠組みのみでとらえると、権力支配のために利用される「母性愛」という共同幻想として受容される恐れがあります。
そうすると、表向きでは権力支配を批判しながら根本では権力支配を擁護するという(かつての男性中心の共産主義運動が陥ったような)自己矛盾に陥ってしまうでしょう。
この映画でも、ズズが「世間」に向けてアピールするときには母子の規範を利用します。
しかし、ズズとスチュアートが向き合う場面では母と子というより、あくまでも個と個として愛情を向き合わせています。
それによって、矛盾を避けられていることに、好感を持ちました。
ところで! そんなことより、いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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