最後の人

1980年代後半、幼女連続殺害の実行犯宅から大量の録画ビデオが押収された。
ビデオの内訳は「男どアホウ甲子園」や「ドカベン」といった、男性性を賛美する、いわゆる「男の子向け」スポーツアニメ番組が大半だったが、そのなかに1本あったホラー作品ばかりが大々的に報じられた。
そして、今夏、神戸の男子高等学校でまた、いじめを苦にした自殺があった。いじめ主犯格の少年は野球部エースだった。
けれどその報道後も、ホラー作品のときとは違い、マチズモなスポーツ「野球」へのバッシングが起きる気配はない。
F.W.ムルナウ監督の1924年の作品『最後の人』。
高級ホテルのポーターであることを誇りにしてきた老いた男。歳とともに体力が衰えてきた彼は、ポーターの職を解かれ、洗面所の掃除夫の仕事を与えられる。彼は、盗み出した金モールの制服を着て出勤し、同居している姪や近隣への対面を取り繕う…。
ホラーマニアと、スポーツマニア。異常視されるのは前者、正常視されるのは後者。
高級ホテルのポーターと、洗面所の掃除夫。当時のドイツで、それなりの職とされるのは前者、利用者から蔑まれ威張り散らされ軽く扱われるのは後者。
集団スポーツは帰属意識を養う。制服は帰属意識を養う。
そして、社会的に望ましいと設定されたものへの帰属意識こそが、差別主義の基盤。
この作品の主人公は、ポーターの制服を着ていれば、社会人としての承認を得られた。
社会的地位をもって他者の価値を判断する者たちから、自分自身から、社会のフィルターを通してしか他者を判断しない者から、尊敬の目を向けられた。
自分の価値を承認してほしいという欲求は、社会で権威づけられ共有された多数派の価値観を反映した視線だけを気にしている。
だから、承認欲求を満たされた生活から掃除夫に格下げされたとき、彼はまず外面で自分を偽ろうとする。
制服を駅のクロークに預けて出勤する主人公。偽りの尊敬にこだわる愚かな人物を、情けないものとして、冷笑を匂わせて描かれる。
しかし主人公が蔑まれ軽く扱われる掃除夫でいることを受け容れたとき、その先にあたたかい夢が与えられて映画は終わる。
外面で他者を区分けし価値設定する社会を描きながら、最後は優しい御伽噺としてまとめたムルナウ監督。
それを荒唐無稽と解釈して呆れるか、映画としての嘘に心地良さを感じるか。
ナチス党が政権を執った当時のドイツで、同性愛者であることを公言していた勇気あるムルナウ。
社会が望ましいと設定した「異性愛者」に同化し、自分を偽ることを拒否したムルナウ。
そんなムルナウの描いた優しい夢だから、この映画の結末には居心地良く身をゆだねたい。
「異性愛者」とは、社会のまっとうな成員としての制服だ。
その制服を着ることは当時のドイツでは、ナチ入党の資格のひとつだっただろう。
神戸の事件で、優秀なスポーツマンであることは、いじめる側でいられる充分な条件だっただろう。
制服を、脱ぎ捨てよう。制服を、脱がしてやろう。
制服の拒絶は、集団の暴力に抗う手段になる。
野球に制服があるのはきっと、偶然じゃない。
歴史上、社会権力に抗ったかたがたが、制服を着ていなかったのはきっと、偶然じゃない。
ところで! そんなことより、いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 最後の人
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.delta-g.org/mt/mt-tb.cgi/42























コメントする