いったいいつまで「頭カラッポなお人形」扱い?
[ネタバレ上等! クマのエイガヒョウ 001]
『中国の植物学者の娘たち』(2005年、カナダ=仏)観てきたのー。
非規範的性愛を描いた作品群の歴史的な流れからすると、明らかに後退なのー。ホモソーシャルの実態(国家—父—息子の無自覚な共犯関係)はわりとリアルかつ説得的に描いているのに、ふたりの娘(アンとミン)のあいだにいかにして親密な性愛感情が芽生えるかというディテールはほとんど描かれていないからー。
アンが半裸でハーブの蒸し風呂に入ってうたた寝しているところをミンが偶然目撃してねっとりと舐めるような視線を向けたとか、二人で湿地帯に出かけ、父(先生)が好む泥を採取して、川の水で体についた泥を洗い流しあうとかのフィジカル・エロスなエピソードばっかりー。まるで二人の美しい(という設定の)娘がひとつ屋根のしたに暮らして裸身をさらしたりボディタッチしたりしていればどちらからともなく性愛的な親密さが生まれるのだとでも言いたげなアホな脚本なのよー。それって性的に誘惑した相手の女が最初は嫌がって抵抗しても強引に行為におよんでしまえば「そのうち良くなってくるはず」とか「女=性的刺激ですぐその気になる存在」とか「女=思惟性なし」と都合よく思い込んでいる男のバカさ丸出し? この監督、女をバカにしているんじゃないかしらと思わせるくらい映画のつくりがほんとにバカなのー。
以下、ネタバレありありなのー。
アンとミンは互いが「結ばれる」ために寺院のセレモニーを踏襲して108羽の鳩を大空に放つんだけどー、いつの間に二人がそこまでお互いへの思いを深め合ったのか不明。心臓を患う父(先生)が発作に見舞われながら二人の関係を知り、死の直前にそれを証言したために(なぜか)裁判で二人が死罪を言い渡されたときには、特に抵抗することもなく黙って淡々と受け入れちゃってクマびっくり。物わかりがよすぎるというか諦めがよすぎるというか、ストーリー展開上都合よく使われすぎー。処刑後、鳩を放ったかつての場所で、二人の遺灰が混ぜ合わされ風に舞う、というシーンを挿入することで、空疎なロマンティックラブイメージをいたずらに増幅させているにすぎないしー。
だいたいさー、中国って同性愛行為が極刑に処せられるほどの重罪扱いなの? 設定がかりに中国によく似た文化を持ちかつ同性愛行為を重罪とする架空の国だったとしたら、あの二人は自分たちの関係が公になれば死刑になるということを予期していたのかしら(もし知っていたなら、二人が初めて性的接触を持つときにはそれなりの葛藤があってしかるべきだと思うけどそんなシーンはなかったよ)。死刑宣告がまったくの想定外だったとしたら、なぜ不服を申し立てないのかしら。裁判官の宣告の意味が分からないくらいバカなのか、あるいは死を悟りきっているのかまったく不明なのー。
監督はインタビューで、「同性愛を描きたかったのではなく、自由な恋愛を許されない社会を客観的に描きたかった」と語っているけど、女性同士の睦事を「客観的」に描くことは結局覗き見エロスな描写になるってこと? また、そのような社会では自由恋愛を禁じられた当事者が抵抗を示すのは無駄で醜い行為であって、ただ甘んじて死を受け入れ、あの世で永遠に結ばれることをこっそりと願うのが非規範的性愛カップルの「美しい」ありかたなのだ、と悦に入ってる感じがしてサゲサゲ。
カップリングは女性同士じゃなくても、ゲイでもトランスでも、それこそロミジュリみたいなヘテロでもよかったはずなのに、「美しさ」とか「せつなさ」とか「はかなさ」とかいう安易な枠組みに押し込んで体裁を整えるには、ヘテロ男好きする程度の若くてキレーなねーちゃん二人を裸で絡ませておけばいいんじゃね? って感じが見え見えー。そうすればスポンサーは比較的簡単につくもんねー。それが商業映画をつくるうえでのお約束ってやつ? あ〜あ。
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