白くまになりたかった子ども
[いぬのえいがひょう] vol.015
白くまになりたかった子ども (2002) L'Enfant Qui Voulait Etre Un Ours
美しい作品です。
太い筆で描かれた単純な線の輪郭のキャラクターと繊細な水彩の背景が、不思議なことに見事に一体化しています。
雪と氷に覆われた極寒の地。
子どもが生まれるのを楽しみにしていたメスクマは、オオカミの群れに襲われてしまいます。
そのときのショックのためか、子どもは生まれたとき既に息絶えていました。
意気消沈するメスクマのためにオスクマが連れてきたのはヒトの子ども。
オスクマはイヌイットの家に忍び込み人間の子どもを誘拐してきたのでした。
はじめは興味を示さないメスクマでしたが、チビクマと名付けられたその子を、いつしか自分の子どもとして育てていくようになります。
しかし、チビクマの父親であるオスヒトがシロクマの痕跡を追い、チビクマを取り戻します…。
イヌイットに伝わる神話をもとに描いた寓話とのことですが、舞台は近代になっています。
都会の人々から冷ややかな眼を向けられながらも自分たちの望む素朴な生活を営む近代のイヌイット。
イヌイットのオスヒトとメスヒトは、シロクマでありたいと望む子供に手を焼きながら、ぎこちなくも少しずつ子供のシロクマを望む気持ちを理解していきます。
能動的な選択として自分の生活を選んできた彼らだったからこそ、自分が何者であるかを自分で選びたい気持ちをわかることができたのでしょう。
社会権力は、成員それぞれが帰属すべきカテゴリーを限定して設定します。
ヒト自認も、クマ自認も、固定的な自己認識という幻想を基盤において成り立っているといえます。
ただ、決定的な違いは、価値の設定の在り方。
ヒトが行う社会的な価値設定は、上下貴賎を設定して成り立つ価値設定です。
ヒトがヒトであることは社会的な価値であり、クマであることはただクマであることに価値がある。
太古に紡がれた神話から現代の小説や映画作品まで、ヒトがクマになる話が膨大にあります。
ヒト種が神と崇めてきたクマ。
雄大な森の中に君臨し、凍りついた冬には忽然と姿を隠す、謎に満ちたクマは、ヒト種にとって、長いあいだ、畏怖と尊敬に相応しい、世界の摂理を担う偉大な存在でした。
クマになりたいという想いは、真理を知りたいという願い。
この映画は、都会ヒトとイヌイットの相克と、ヒト種とクマ種の相克を重ね合わせたために、(ヒト社会文脈で)わかりやすいつくりになっています。
近代を舞台にしたことと引き換えにクマの尊厳が希薄な描写になってはいます。
スピリチュアルな精霊の啓示がクマを包み込み、尊厳を回復します。
巷に溢れるスピリチュアル占いの類は、ヒト社会内限定での運命ばかりを占います。
ヒト種はいつか、スピリチュアルをクマに返却しますように。
尊厳という言葉には、ヒト権運動の手垢がつきすぎています。
ヒト種はいつか、尊厳をクマに返却しますように。
要するに、クマすばらしいよー! クマってすごい! グオーグオー!
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