クィア・スタディーズ入門(10)
●ホモエロティックへの恐怖
前回の最後に述べたことをもう一度くりかえしておくと、西洋近代以降の家父長制社会においてはホモソーシャルなつながりがとても強いが、それとホモエロティックな欲望とは完全に切り離すべきである、切り離せるはずだ、という理念が規範となって、男性性が構築されていく。つまり、西洋近代の男性ジェンダーは、「こういうことをしたらお前はホモエロティックな欲望を持つ人間、すなわちホモセクシュアルだ」という恐怖を片隅においてつくられていったのだ、といえる。
そういう意味では、ホモソーシャルな絆とホモエロティックな絆をまったく無関係で別物であると言ってしまうのは、かえってホモフォビックなホモソーシャル体制を強化・支持してしまうことにつながる。だからこそ、西洋近代以降においては、ホモソーシャルな色合いが強い社会ほどホモフォビアが強くなる。結びつきが強いだけに欲望に転じる可能性も強くなるので、欲望に対する拒否反応も強くなる。
ひじょうに有名な例が軍隊。アメリカにおいて、同性愛者の存在を絶対に認めたくなくて頑張っている代表的な領域が、軍隊。男同士でお互いに信用しあって命を預けあって運営していくというホモソーシャルな絆が強いからこそ、ホモフォビアも強くなる。そこでホモエロティックなものを持ち込まれたらたいへんだ、という恐怖感が強い。
また、日本を含むどの社会でもわかりやすい例は、集団スポーツ。集団スポーツの世界はホモフォビアがとても強いことが多い。個人スポーツの分野にはカムアウトしたゲイ男性選手がいるかもしれないけれど、アメリカンフットボールやラグビーやサッカーなどではほとんどいない。集団スポーツはある意味軍隊と似たところがあって、すごくホモソーシャルな社会であるだけに、拒否反応もすごく強い。
●ホモセクシュアル・パニック
ホモソーシャルな社会で、ホモエロティックな関係を一度でも認めてしまったら、それまでは友情や信頼や敬意であったホモソーシャル関係が全部欲望になってしまうのではないかという恐怖がある。一度その存在を認めたらあらゆる部分に欲望が入りこんでくるだろうという恐怖があるので、絶対に認めたくない。もちろん、冷静に考えれば、AとBの関係はエロティックだけどCとDの関係はエロティックではない、という判断や区別は当然なされるのだけれども、ホモソーシャルな体制のなかでは、そのような区別がすべて崩壊し、ホモソーシャルな結びつきが維持できなくなってしまうかもしれない恐怖から、オーバーリアクション、過剰な拒否反応を見せる。
これをホモセクシュアル・パニックという。いったんホモエロティックな要素を察知すると、あらゆるところにホモエロティックな匂いを嗅ぎつけて、それらを片っ端から必死になって排除しなければならない強迫観念に駆られ、パニック状態に陥る。
●セジウィックの分析の利点
セジウィックは以上のような分析をおこなったが、かのじょの分析の利点/業績のひとつは、分析の対象を同性愛ではなく異性愛規範としたこと。異性愛規範がどのように機能しているか、どういうふうに自らを維持しているのか、いかに自分自身が否定しているようなホモエロティックな欲望に立脚しているのかを示した点が、セジウィックの分析の大きな特徴のひとつである。
このような分析の観点は、その時点までのゲイ・スタディーズの主流とは異なる、クィア・スタディーズの特徴のひとつだということができる。マイノリティである自分たちがどうかということを分析・報告するのではなく、「あなたたちはどうなの?」とテーブルを返して、メインストリームである異性愛のありかたを分析していく。同性愛だけを分析の対象として理論をつくっていく限り、異性愛社会は手つかずのまま、当然の前提として存在しつづけることになる。セジウィックは、異性愛と切り離された同性愛を研究するのではなく、異性愛社会がいかに同性愛/同性間の欲望を利用して形成・維持されているかを分析しようとした。
もうひとつの大きな功績は、ジェンダーを軸とした権力配置(男性が女性を媒介にして結びつきを強化していく家父長システム)と、セクシュアリティを軸とした権力配置(同性愛を抑圧/拒絶することによって形成・維持される異性愛システム)がどう結びついているかを示したこと。つまり、現在の社会において、家父長制と異性愛規範が深く関連しあって機能しているということを、初めて、そして説得力のある形で示し、フェミニズムとセクシュアリティ・スタディーズ両方の流れを連結する形で分析をおこなった。それが、セジウィックがクィア・スタディーズ初期のひじょうに重要な理論家のひとりになった理由でもある。
●レズビアン連続体——レズビアンの黙殺
ここで注意しなければならないのは、セジウィック自身も明言していることだが、かのじょのホモソーシャルに関する分析はあくまでも男性のホモソーシャルな絆に関するものであって、これをそのまま女性同士の絆に応用することはできない、ということ。女性同士が男性を媒介にして絆を結ぶというのは、個人レベルではやっているかもしれないが、社会体制としては成立していない。したがって、女性同士の絆についてはまた別の分析が必要である。ただしセジウィック自身はそういう分析はおこなっていない。
女性同士の絆に関しては、前述したアドリエンヌ・リッチの「レズビアン連続体」という概念があって、女性同士の絆はホモソーシャルなものからホモエロティックなものまでゆるくつながっているのだというような議論がされることもある。ただし、「レズビアン連続体」概念自体は、友情の結びつきも欲望もみんな一緒にされることによって、女性に性的欲望を抱くというレズビアン的な要素が無視されてしまう、などの点から、強い批判も受けている。「みんな同じ女」という表現で、ヘテロ女性とは異なるレズビアンのセクシュアリティが黙殺されてしまったという歴史があるので、注意が必要。リッチ以降、女性同士の絆については、セジウィックが男性同士の結びつきに対して行なったような分析は、それほどなされていない。
<つづく>
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大変興味深い分析・研究報告でした。
日頃、ゲイ文化やゲイ男性の自己表現は差別の中にあっても比較的なされていると感じます。しかしレズビアンの場合は、男性社会の中での女性差別に加えセクシャル・マイノリティであることへの抑圧が二重に課せられており、更に困難な状況に置かれているように感じています。
私自身は一応ヘテロ女性であると自認していますが、レズビアンの友人と時々そのような事を話します。どうすれば良いのか考え行動することは重要ですが、同時に理論的な分析をしたり理解を深めることはとても大切なことではないかと感じました。
論点がずれていたら、ご批判いただければ嬉しいです。
ぴかりこさま
コメントありがとうございます。
「クィア・スタディーズ入門」は今後もまだまだつづきますので、ぜひお楽しみに。
論点のズレというよりも、つねひごろから抱いている素朴な疑問をひとつ申し上げますと、セクシュアル・バラエティ(ミヤマの造語。略称:セクバラ。セクシュアル・マイノリティのこと)を取りまく状況について語る際、ヘテロのかたがたが「自分はゲイ/レズビアンではないのだけれども」という前置きを、ほぼ必ずといってよいほどなさることです。
差異を明確にすることは大切であるとは思いますが、黙っていれば「存在しない」ことにされかねないセクバラが自らのセクシュアリティをカムアウトすることと、セクバラ「について」語る際ヘテロセクシュアルが行なうカムアウトでは、どうしたって意味合いが異なりますね(ヘテロはサイレント・マジョリティですから、黙っていても「存在しない」ことにはなりません)。
セクバラ「について」語るヘテロのカムアウトというものが、(カムアウトした当人の意図とは無関係に)どういう意味を持ってしまうかについて、最近ちょこちょこ考えています。
2008年7月のミヤマさんの記事=「大切な人とはセックスはしない(2)」に不用意なコメントをしたぴかりこです。
色々考えてみようと改めてクィア・スタディーズ入門を読み返していたら、ああ、こんなところにも投稿してたんだ…
私も常に上記のような前置きをします。前置きをしながら、一種の居心地の悪さ・違和感を感じます。
なぜなら、「言っておきますけどね。私は優しい人権主義者ですけど、セクシャル・マイノリティなんかじゃないですからね」という弁解がひそんでいないかととても心配だからです。
ただ、「セクバラ」(以後、セクバラを使わせていただきます。薔薇を思わせて綺麗)主体の場で発言する時は何らかの表明はせざるを得ません。なぜならその場はセクバラの人たちの場であって、ヘテロの私はある意味ゲストです。何も言わずに発言するとしたらセクバラになりすますことにならないか、ヘテロ臭を無前提に撒き散らすことにならないかと気がかりです。
セクバラの方とお話しするときは、「こういう前置きは…みたいで嫌なんだけど」と言い訳してみたり。上手く言えませんがこの場合の前置きは、「黙っていても存在するのに、ことさらのカムアウト」とは違うのではないかと思います。
何も言わずにセクバラのお祭りに参加した時、初対面の人たちと付き合っているうちにすっかりセクバラだと思われ、「実はヘテロなんだけど」と言いそびれてアセアセ状態になったことも有ります。一緒にいたセクバラの友人には、「(誤解されたままでも)いいんだよ、別に」と言われましたが本当にいいのかな。
壁を作らず、さらりと立場の違いを示す方法は無いものかと思います。フェミとビアンが連携し合って活動している先進的な国々などではどうなんでしょうか。
ぴかりこさま
>何も言わずに発言するとしたらセクバラになりすますことにならないか、ヘテロ臭を無前提に撒き散らすことにならないかと気がかりです。
なるほど。そういう懸念がおありなのですね。わたしはむしろ「ヘテロです」と名乗らずにいることで、「自分がレズビアン、ゲイだと思われてもいい」というようにならないのかなぁ、と思うのです。
セクバラ・フレンドリーなはずなのに、「わたしはヘテロですが」と前置きすることで、ご自身のレズビアン性、ゲイ性を否定しているのではないか、と意地悪なことをつい考えてしまいます。
……で、自身のセクシュアリティを語る際におすすめの模範解答は、「わたしはまだレズビアン/ゲイではありません」というものです。ぜひお使いください(笑)。