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クィア・スタディーズ入門(11)

2008年2月26日 00:48 ミヤマアキラ
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【クィア・スタディーズ講座】第2回

「『異性愛規範』をめぐる小難しい話」(5)

 

おまたせしました。第2回の最終回です(一連の記事はカテゴリ:クィア・スタディーズをご覧ください)。

●女は男とつがうことにおいて「女」である

「ホモソーシャルな体制」においてジェンダー規範と異性愛規範がつながっているとして、その場合のジェンダー規範は、基本的には男性/女性という区別を前提としている。女性を媒介にして男性同士がつながる、というように。

 

ただし、ジェンダー規範とは、男性とはどういうものか、女性とはどういうものかを指すだけでない。そもそも人間を男性/女性というふたつのカテゴリに区別すべきである、ふたつに区分しなければいけないということ自体がジェンダー規範であり、そしてこれは異性愛規範ともクロスしている。

 

レズビアンの理論家であるモニク・ウィティッグは、「レズビアンは女性ではない」という表現で、この点を指摘していた。女は男とつがうことにおいて「女」であるのだと主張したのである。それをさらにおしすすめて、男性/女性の区分それ自体がジェンダーとセクシュアリティにかかわる規範に要請されたものである、という主張が生まれてくる。

 

もちろん、通常私たちはその規範を「当たり前の事実」として受け止めているが、どのようにしてそれが「当たり前の事実」となったのかを考えようとしたのが、ジュディス・バトラーである。かのじょの出世作ともいえる『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(原書は1990年出版)のなかで、バトラーは「セックスはつねにすでにジェンダーである」と主張する。じつはこれは中途半端な理解と多くの誤解をも招いたのだが、それでも、ここ15年のフェミニズム理論においてバトラーのこの主張の影響はひじょうに大きい。

 

 

●セックスとは「意味づけ以前のもの」

従来のフェミニズムにおいては、ジェンダーとは社会的な性別であり、セックスは自然なものであるという区分が一般的に認められていたのだが、バトラーの主張は、その区分法に対するものであり、基本的には1980年代の主流フェミニズムに対する異議申し立てである。

 

注意が必要なのは、バトラーにおける「ジェンダー」と「セックス」の定義である。バトラー以前からあったジェンダーの定義として、よく知られているもののひとつに「身体に関する知、意味、あるいは意味付与の行為」というものがある。身体のある特定の特徴に対して意味を与えること、あるいは与えられた意味をジェンダーと呼ぶ。それに対して、セックスとは「意味づけ以前のもの」と考えるのが、1980年代のフェミニズムの議論における一般的な前提であった。

 

このとき、ジェンダーは、身体について与えられた意味だから社会的なものであって、社会の変化に応じて与えられる意味も変化する。セックスは意味づけ以前のもの、つまり「自然」のものであり、従って社会の変化に応じて変化するようなものではない、ということになる。

 

 

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●「セックスはジェンダーに先行している」

その考えかたを前提とすると、フェミニズムの進む方向は大きくわけてふたつある。

 

ひとつは、「ジェンダーは人為的な意味にすぎないから、セックスとは切り離して考えるべきだ」というもの。つまり、オス/メスの違いはあるが、それを「男性はこうあるべき」「女性はこうあるべき」という意味に反映させるべきではない。オス/メスは身体に違いはあるけれども、たとえば、メスがこどもを産むからといって、女性には母性本能がある、と考えるべきではない、ということ。

 

もうひとつは、「現在あるジェンダーは男性中心主義的なものであるから、セックスに合わせたのジェンダーを考えなくてはいけない」というもの。たとえば、現在考えられている男性/女性の区分において考えられている女性というものは、ほんとうのメスの身体とは相容れないものだから、メスの身体を見直して、それに合わせて本来の女性性を回復しなくてはいけない、という主張である。

 

いうなれば、前者は社会的平等を求めていく統合型であり(つまり現在の体制のなかで、男女の平等が達成できるし、するべきであると考える)、現在のジェンダー体制では真の女性性は形成されえないとする後者は分離型といえる(つまり、現在の体制それ自体が真の女性存在を不可能にしているので、この体制とは決別しなくてはいけないと考える)。

 

80年代には、大別するとこれらふたつの方向性があるが、どちらの場合でも、セックスというものがそもそも最初から存在していて、その後でジェンダーという意味づけが起こるのだ、と考えられている。つまり、セックスはジェンダーに先行している、あるいは、セックスはジェンダーの外部にあるという考えかたは共通している。もっといえば、ジェンダーという意味づけがどうであっても、元にあるセックスは変わらない、セックスはジェンダーの基盤である、という考えかたは両者に共有されていた。

 

 

●従来のフェミニズムは「女」のカテゴリを閉ざす

「オス/メスがこういうものだからといって、男性/女性をこのように意味づけしてはいけない」という主張においても、オス/メスの区分のうえに男性/女性の区分が成立するという考え、オスの身体を持っていれば男性で、メスの身体を持っていれば女性であるという認識が前提とされていることには違いはない。

 

つまり、フェミニズムの基盤になっているはずの「女」というものが、なによりもまず、「女」の基盤としての「メスのセックス」に基礎づけられる、ということになる。ジェンダーが社会や文化の影響によって変化することがあったとしても、意味を与えられるはずの「女」とはいったいだれのことなのかは、セックスによって決まってくる、という発想が根底にある。

 

そう考えていった場合、セックスという基盤のないジェンダーというものは、意味づけされる対象を持たず意味だけがある、ということになってしまう。メスの身体に基づかない女性性は、意味だけがあって意味が出てくるべき基盤がない。意味だけがあるというのは、きちんと根づいていないということ。そのような女性性は、ジェンダーとしては失敗、不完全である、という発想が出てくる。

 

この発想からすると、トランス(ジェンダー)という存在は、基本的には大失敗ということになってしまう。実際、フェミニストのなかから、トランス女性を女性と認めず、女性になり損ねている、女性のふりをして女性の領域を侵害している、などという主張も、しばしば聞かれた。

 

さらに、セックスを社会や文化と無関係な「基盤」とみなすことは、ほかのいかなる文化的社会的差異(経済格差、国籍、階級など)よりも、セックスという「自然」な差異がいちばん重要なのだ、という発想にも結びつく。たとえば、メスの身体を持っている女なのだから、極論すれば、「アメリカに住む年収3000万ドルの私」と「アフリカでHIVに感染していまにも死にそうになっているあなた」は、いずれにせよ同じ女である、というくくりかたをされてしまう。そういう問題点があった。

 

つまり、バトラーが批判しようとしたのは、「セックスとは人為的な意味づけであるジェンダーに先行するような身体的な差異で、なにがあろうとけっして変わることのない、もっとも根本的なものだ」という概念規定を受け入れることによって、フェミニズムが「女」というカテゴリを閉ざしてしまう(ex: トランスの排除)という点と、同時に、そのカテゴリを究極的には均質であるとみなしてしまう(ex: 最終的には、セックスが同じならみんなわかりあえる)という点。それらへの批判として、「セックスはつねにすでにジェンダーである」と主張した。

 

 

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●セックスはジェンダーに先行/優先するのか?

『ジェンダー・トラブル』はいろいろなところでいろいろな言及のされかたをするが、基本的には、80年代フェミニズムの主流に対する批判である。とりわけかのじょの立場からすると、トランスジェンダー、あるいはブッチ・レズビアンのジェンダーなどを、失敗/不完全なものと見なしていたフェミニズムの理論の立てかた、政治のありかたを批判しようとして出てきた主張であった。

 

したがって、バトラーによる問題の立てかたは、「セックスはジェンダーに先行/優先するのか?」ということになる。つまり、ジェンダーを人工的な意味づけであるとしたら、「それより前にあって、人工的な意味づけを完全に逃れた身体的な差異としてのセックス」という定義は正しいのか、という問題定義をしたかった。だから、この本で問題にされているのは、セックスの概念定義であるということに注意していただきたい。

 

「セックスはつねにすでにジェンダーである」と言ってしまうと、「では、ホルモンはジェンダーなのか?」というようなバカバカしい問い返しが起こるのだけれども、バトラーが主張しているのはそういうことではない。人為的な意味づけに先行するような、たとえば皮膚の質感や体毛の生えかた、筋肉、神経などの集合体が存在するかしないかということは最初から問題にしていない。また、「外性器は社会的につくられたのか?」「ホルモンは文化によってつくられたのか?」という話でもない。

 

セックスという概念で理解されているのは、特定の血管や筋肉、皮膚の形状などではなく、特定の身体部位ですらない。外性器/内性器と名づけられている特定の部位や、特定のホルモンバランス、特定の遺伝子配列、特定の生殖器官など、もろもろの要素の集合体を「セックス」と呼ぶ。「セックス」とはどこか特定の身体部位や器官だけを指すわけではない。

 

無数の神経や筋肉や血管やホルモンなどの組み合わせのなかから、特定のものを「男/女」というふたつのカテゴリをつくるように取り出して、まとめる。そのまとまりが「セックス」と名づけられてきたのである。そしてこのように、「まとめ」「名づける」ことは、それ自体がまさしく人為的な意味づけ行為にほかならない。その際の名づけの原理、カテゴリ分けしたものを「男」あるいは「女」と名づけた原理こそ、ジェンダーである。

 

そもそも、カテゴリ分けのための部位のまとめかた自体に、人為的な意味づけが介在している。だからこそ、セックスとはその定義が主張しているような「人為的な意味づけに先立つ」ものではなく、まさしく人為的な意味づけ/ジェンダーなのである、というのがバトラーの主張。

 

バトラーが問題視するのは、「セックスはつねにすでにジェンダーである」にもかかわらず、人為的な意味づけに先立ち、変わることがなく、したがってあらゆるものの基盤になる、というような形でセックスを定義し、その定義を利用することである。

 

*次回は、これまたバトラーの主張する「パフォーマティヴィティ」を中心に紹介します。

 

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