トリコロールに燃えて

[いぬのえいがひょう] vol.018
トリコロールに燃えて (2004) Head in the Clouds
1930年代。
英国の学生ガイは上流階級の美しい娘ギルダと出会い恋におちるが、ギルダはガイの求愛を受け止めることなく、単身パリへ旅立って行く。
そして3年後、ギルダからの手紙に導かれてガイはパリでギルダと再会。
ギルダは、スペインの内戦を逃れてきたミアと共に3名で愛しあい暮らすことを望む。
3名はしばらくのあいだ享楽的な日々を送る。
しかし、ミアの故郷スペインでは内戦が起こり、フランスにもナチスの勢力が台頭してくる…。
モノガミー、男性中心、異性愛中心、社会多数者利益優先の価値。
ギルダ、ミア、ガイの三名は、そういった価値の支配からく離れた理想の日々を送る。
それは、理想を立ち上げて実践されたものではなく、ギルダの「性的な魅力」をもって維持された。
つまり、それを意図していたのはギルダだけ。それで何の問題もなかった。
理想や理論は、実践されていれば、表明や説明の言語化は必要ではなかった。
社会問題の理論化の必要性は、殆どの場合、自己の利益のため。
現在、権利を認められていないこと、許されていないことなので正当化を求める。
だからこそ、抵抗運動を起こすのは、マイノリティばかりであることが多く、 逆の視点から見れば、既存の秩序を疑問に付す者は被害者意識と想像されてしまう。
ギルダはそうではなかった。被害者ではなく、偶然にたどり着き維持できた理想の関係だったからこそ、わざわざ理論化の手順を踏む必要はなく、幸運だった。
しかしその幸運が崩れ去るのは一瞬のこと。
理論による現実批判に現実が追い付き、理論と現実が直接の繋がりを持つ頃には、 もう取り返しがつかないほど時間がなさすぎる。
ギルダには、故郷や家族よりも、この3名で造る日々を選択してきた理由を、ミアとガイに説明する時間はもうなかった。
この分岐点でギルダが対峙していたのは、内乱や戦争という社会情勢というよりは、社会情勢に触発されて表面化した、ミアとガイ、それぞれの内面に潜んでいた内なる規範。
実践だけでは、外部からの規範/権力の侵食に抵抗し切れなかった。
それとは全く逆に、自分たちの理想に外部から侵食されないために、可視化させないほうが得策な規範の場合。
つまり、可視化すると矛盾が露呈し矛盾を指摘されてはその規範の維持が困難な場合。
この映画で描かれたものとしては、ナチ将校に「仕方なく」併合する大衆だろうか。
理論と現実の遊離について、現実を優先すべきとわざわざ語られるとき、 それは理論によってもたらされる秩序崩壊の危機感の表明と同一とは言えないだろうか。
論理的に間違っているから、言語化を避けたがる場合。
論理的に正しいから、言語化を敬遠されがちで遠慮してしまう場合。
どちらにしても、言語化を避けがちになってしまう。
今現在の目の前の現実に対しては、「むずかしい」対話は、不必要で不毛に見えるかもしれない。
けれど、必要になったときに、いつでも机上に載せて判断を出来るために、いつも言語化は必要なのではないだろうか。
つまり、いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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