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フェミって言わずにフェミを表現してみろ!

2008年3月17日 22:34 クマ
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[ネタバレ上等! クマのショヒョウ 003]

『あるフェミニストの告白』

(ナワル・エル・サーダウィ著/鳥居千代香訳、未来社、1989年)


とってもとってもとっても素晴らしい小説なのに、邦題のセンスが悪い。これじゃ売れない。「フェミニスト/フェミニズム」に先入観を持っているひとはけっして手に取らない。じゃあどんな邦題が望ましいのかという対案は持ち合わせていないのだけれどもね。


原題は、“MEMOIRS OF A WOMAN DOCTOR”。1931年生まれの著者がこの小説を書いたのは1956年、25歳のときだった。翌年、エジプトの雑誌『ルズ・エル・ユスフ』に連載されるも、政府検閲官の要請によって削除された部分があった。それでも作品の反響はとても大きく、連載の翌年にはカイロの出版社ダール・エル・マーレフから出版依頼を受ける。しかし、編集者の判断により問題があるとされた部分を雑誌に連載されたときよりも多く削除され、オリジナル原稿に比べてはるかに短く穏当な内容のものとして書籍化された。

 

未来社刊の日本語版は、ダール・エル・マーレフから出版されたものを原典としている。度重なる転居によってオリジナル原稿は紛失してしまったそうで、とても惜しい。本書は130ページあまりの短編だが、それにしても、1950年代に20代をおくったエジプト女性の、幼少期から刷り込まれそうになっていた伝統的性別観(男権主義や家父長制など)への疑問、「女性であること」を恥だと思い込まされてきたことへの怒りと反発が、平易な文体でみずみずしく描かれている。フェミニズムがいったいなんなのかわからない、というひとのための入門書にぴったりである。半世紀前の、しかもイスラム圏を舞台にした小説だが、日本に住むクマがいま読んでも深く共感したりハッと目を見開かされるようなくだりがたくさんある。

 

邦題は『あるフェミニストの告白』だが、本文には一言もフェミニストあるいはフェミニズムという言葉は登場しない。その言葉を使わなくても、いや、むしろ使わないからこそ、「女性」の位置に置かれた者の直面する不条理や、日常生活における不自由さ、そして自分の望むありかたを、鮮やかに表現できるのかもしれない。

 

たとえば、こんな感じ。

 

***

 

 兄は遊び回り、飛び回り、とんぼ返りをした。私の場合には、坐ったり、一センチでも膝からスカートが上に上がると、母親が獲物をねらう動物のような目付きで私をじっと見つめるので、私は体の恥ずべきところを隠すのだった。

 

 恥ずべきところ! 私の体の全部が恥ずべきところばかりだった。そのとき私はまだ九歳の子供だった。

 

 ほんとうに自分のことが悲しくて、部屋に閉じこもってよく泣いた。それまでの人生で私が初めてほんとうに泣いたのは、学校の成績が悪かったり、大切なものを壊したからではなかった。私が女の子だったからである。何かわからないうちから、自分が女であることに涙を流したのである。私は、人生について少しわかるようになるとすぐに自分が女であることに恨みを感じていた。(「第1章 私は女の子!」p1415

 

***

 

んー、FtMトランスジェンダーさんの苦しみにとても似ているように思う。女性性を押しつけられるがゆえの性別違和って、ヘテロ/非ヘテロを問わず、けっこうな数の女性が抱いているんじゃないかな。

 

もういっこ引用。医師になった「私」と、かのじょに老齢の母の死を看取ってもらった息子の会話。

 

***

 

「女の人の場合、美しいことと頭がいいこととは結びつかないんです」

 

「どうして?」

 

「わかりません」

 

「じゃ、私がいってあげます。女の子は小さいころから、体だけを持っており、それ以外のものは持っていないと信じこませる教育をされるのです。だから大きくなっても、死ぬまで、体のことに一番関心を持つんです。女にも頭があること、それを使わなければならないことを知らないんです」

 

「どうしてなんですか?」

 

「世の中で重要な地位についている男たちは女が美しいばかな動物であり、好きなときに女の股の間にのしかかることができればいいんです。それ以上のことを女に望まないんです。男たちは女を同等の者、パートナーとして望まないんです。女たちが劣ったものであること、男たちに仕えることを望むんです」(「第4章 結婚、そして別れ」p7677

 

***

 

どのページを読んでも、共感したり、それまでもやもやと抱きつづけてきた違和感に言葉を与えられた感じがして目ウロコになる読者は少なくないと思う。フェミって言葉や概念を知らない/使わないからこそ、砂地に水がぐんぐん吸い込まれていくように、読める。

 

実際、著者いわく、「私はこの作品を書いたころ、女たちの闘いやそのころの女性の地位について書かれたフェミニスト文学を読んだことがありませんでした(読むようになったのは後になってからです)」(「著者のまえがき(p11)」)。

 

フェミニストというと、「ブス女のひがみ」とか「ババアのヒステリー」などと悪意を持ったレッテル貼りをされてきた。いまでもそのレッテル貼りは有効だ。だから、実際にはとてもフェミ的な思考を持つ女性が「わたしはフェミニストではありません」と言明して、レッテルを貼られることを避けようとする。女性に性的に惹かれる女性が、ポルノグラフィックなイメージを持たれるのを避けるために、「わたしはレズビアンではありません」と自身のセクシュアリティを否認しなければならないのと似ている。「フェミニスト」も「レズビアン」も、その意味を骨抜きにされ搾取されて、実態からかけ離れたイメージが捏造され、勝手に一人歩きしてしまっている。

 

現在のクマはすでに、フェミニズムが展開してきたもろもろの理論概念を少なからず知ってしまっている。どう表現していいかわからなかった違和感や自己不全感に的確な言葉を与えられたおかげで、それまで見えなかったものや感じとれなかったことに、気づいたり触れたりすることができるようになった。フェミはクマにとって大きな力となった。いまでもそれは変わらない。

 

けれども、フェミという言葉は、クマが吸収してきたさまざまな言葉たちを集約したものでしかない。いまでも言語化できない違和感や疑問、不条理な感覚にさいなまれているひとたちはたくさんいる。そのひとたちにいきなり「フェミ」という言葉を投げかけても、ピンとくるはずはない。フェミを知らなければフェミという言葉を使わずにものを書くしかないが、フェミを知った後にこそ、フェミという言葉を使わずにフェミを表現することが問われるのではないか。

 

そのような視点を持ちながら、ナワル・エル・サーダウィのその後の作品を、これからひもといていこうと思うクマであった。

 

【ナワル・エル・サーダウィの他の著作】

イヴの隠れた顔―アラブ世界の女たち

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