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4ヶ月、3週と2日

2008年3月28日 02:18 いぬ
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[いぬのえいがひょう] vol.024

4ヶ月、3週と2日 (2007)

 4 Luni, 3 Saptamani Si 2 Zile


1987年、チャウシェスク独裁政権末期のルーマニア。


「自由が極端に制限されていた恐怖政治下の社会」

当時のルーマニアと全く同一の形で自由が制限されている時代や場所以外からは、そんな社会と評される当時のルーマニア社会。


寮のルームメイトのガビツァの違法堕胎の手助けのために奔走するオティリアの一日が描かれる。


映画のはじめ、オティリアとガビツァは、慌ただしく必要なものをまとめて出かける用意をしている。

事前に映画の内容を知っていないなら、この時点では、オティリアたちが、どのような状況にあって、何処へ何をしに行くのかは、鑑賞者にはさっぱりわからない。

映画は、鑑賞者に向かっていちいちわかりやすい説明を加えない。

オティリアがその日、ひたすら行動するしかなかったように、映画自体もひたすらオティリアの行動を追ってゆく。


オティリアは、ヘテロ恋愛相手の男アディからお金を借り、ガビツァが電話予約を入れていたホテルへ向かう。

ホテルでは「そんな予約は入っていない、電話だけでは予約は成り立たない」と冷たくあしらわれ、他のホテルを探す。

オティリアは、自分が会う予定だったベベという男に代わりに会って欲しいとガビツァ言われ、待ち合わせ場所へ行く。

ベベは、ガビツァが現われなかったことと、希望のホテルと違うホテルを予約したことに不快感をあらわにする。

更に、妊娠の期間を聞かれ、「2か月? 3か月? わからない」と曖昧な返答をするガビツァに、ベベは「妊娠期間が違えば処置の方法も違う」と、あからさまに語気を荒げる。怒って当然だ。


ガビツァは、ホテルの予約の説明も、違法堕胎を依頼した相手であるベベの事前の説明も、ちゃんと守っていなかった。

オティリアにも、オティリアにも、正確な情報を伝達していなかった。

そもそも望まない妊娠をしたということは、強姦されたのではない限り、ガビツァが相手の男と妊娠の可能性についてちゃんと話し合わずにセックスをしてしまったということだ。

説明を聞く責任、説明をする責任を果たしていない。

馬鹿げている。


ただ、「だから、妊娠も、違法堕胎とそれに伴う危険も、馬鹿なガビツァだけの責任の範疇だ」などと結論づけることはできない。

「本当の妊娠期間を言ったら、ベベは堕胎を引き受けてくれないと思った」とガビツァは言う。

結果として見当外れだったとはいえ、ガビツァは、まずは言われた相手の受け取り方を想定して、それに合わせて発言を選ぶのだ。

オティリアに対しても、面倒な説明を省いた簡単な依頼を心がけたためだっただろうし、妊娠の危険をセックス相手の男に言わなかったのもそういう心理だろう。

そんなガビツァの傾向から想像できるのは、ガビツァは説明することを禁止され続けてきたのだろうということ。

余計なことを言わない。疑問があっても口に出さず、周囲の言うことをきく。

そんな「女らしい女」、命令を口にしなくても都合良く事前に気をまわして男の希望どおりに行動する、都合のいい女であることを求められ続けてきたのだろう。


しかし、ガビツァは、女らしい女であることの弊害が自分自身に及んだこの期に及んでさえ、あくまで女らしい女の態度を崩さない。

体内から胎児さえいなくなってしまえば、あとは考えずに目を背けていられるものね。そんなものでしょう。


夜。ガビツァをホテルに残し、オティリアは、ヘテロ恋愛相手のアディの母親の誕生パーティに顔を出す。

この、パーティのシーンは不快だ。
家族ぐるみのパーティは、ひたすらに、固定的な家族制度や偏狭な性別観を前提にした会話が交わされる場だ。

煙草を吸おうとしたオティリアに、アディの父は「女は婚約者の前で煙草を吸うものではない、と、つまり、女は男に媚びていなくてはならないと諭す。
オティリアはそんなパーティに苛立つ。

今、違法堕胎という大変なことの只中にいるから平穏な日常のパーティに苛立つ、というだけではない。

自分の意思や判断を放棄することで得られる平穏な日常。

自分で判断して行動し危険にさらされる自由。

その危険をもたらす主体は、目の前にいる。

オティリアは、気付いている。

このパーティを望むこの家族の男性性と女性性が、社会を通じて、ガビツァを追い詰めているということ。

逆に、ガビツァの女性性が、社会を通じて、この差別パーティを成り立たせているということ。


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男を騙る主体はどこにいる。女を騙る主体はどこにいる。

女には、政治から疎外され、理性から疎外されることで、社会の成員として扱われるという特権が与えられる。
男は、政治を騙ることで、理性を騙ることで、社会の成員として扱われるという特権が与えられる。

この映画で描かれた時代の後、ルーマニアでは、独裁者チャウシェスクとその妻は死刑に処されることになった。

たまたま独裁者や独裁政権があれば、彼らが責任を問われることもあるでしょう。

そうではなかった場合、社会悪の責任を追うべき主体は特定できないと言う。
違う。社会の主体とは、その社会に適応した者たちのことだ。

パーティを楽しむ彼らは、責任を問われない。

社会とは、社会に適応した者たちが責任を押し付けるためのスケープゴートなのだろうか。


楽しい男尊女卑パーティ。

堕胎が終われば女らしい女に戻るガビツァ。

彼らは、彼らが生活するその世界を、「自由が極端に制限されていた恐怖政治下の社会」と認識してはいないだろう。

当たり前の日常は、当たり前の日常で完結し、考えてみるまでもないもの。

彼らの身体は、社会という概念の中に埋没していて、はっきりしない。


この映画では、恐怖政治の影は、バスのキセル乗車を徹底管理しようとするバス乗務員、傲慢な振る舞いのホテル従業員などで、間接的にしか描かれない。
描かれるべきではないのだろう。支配されていることは、支配されている者の大多数には感じ取れないのだから。

けれど、キセル乗車のオティリアに乗務員の目を盗んでバスのチケットをくれた乗客は、権力の支配を感じ取っている。
オティリアも、感じ取っている。社会に埋没しない、自身の確かな身体を、感じ取っている。

鑑賞者も、描かれる世界の権力の支配を、感じ取れるだろう。

これは、映画の「身体」を持っている、稀有な作品なのだから。


そして、鑑賞者の大部分は、113分の上映時間が過ぎたら、日常に戻ってゆく。

無事に堕胎を終えられたガビツァがきっとそうであるように。


オティリアは、どこにいますか。


オティリアさん! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!


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【全国公開中】

・公式サイト(http://www.432film.jp/)


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