リトル・チルドレン

[いぬのえいがひょう] vol.027
リトル・チルドレン (2006) Little Children
アメリカ、ボストン郊外の保守的な考えが支配的な住宅街。
サラは、一流ビジネスマンの夫リチャードと3歳の娘ルーシーと暮らす専業主婦。
サラはある日、リチャードが、通信販売で買った使用済み下着を頭にかぶってオナニーしている現場に遭遇。
サラはその場では「後で話しあいましょう」と言うけれど、話しあうことなど特にない。
リチャードは使用済み下着の匂いフェチ。ただそれだけのこと。
ただそれだけのことだけれど、サラには自分の家庭が空疎なものに思えてくる。
ブラッドは、ドキュメンタリー映像作家として成功しつつあるキャシーという妻と共に、息子を育てながら司法試験合格を目指している。
息子と公園で遊ぶブラッドは、近所の主婦たちの間で、プロムキングとあだ名を付けられ、憧れの的。
サラはちょっとした悪戯のつもりで、公園に現われたブラッドとハグしてキスを交わす。
軽いお遊びのつもりが、やがてお互いのことが心の中を大きく占めるようになってしまう。
そんな中、幼い少女に対する性犯罪で服役していたロニー・マゴーヴィーが街に戻ってくる。
性犯罪者に気をつけろと、ロニーへのバッシングキャンペーンをはじめる街の人々。
バッシングを率先して勧めるのは、ブラッドの友人の元警官ラリー。
ラリーは、ブラッドを社会人アメフトのチームへ勧誘。
男同士の友情という餌でブラッドを誘い、親睦を深め、一緒に街をねり歩く。
街で何をするかといえば、ロニーを中傷するビラを街中に貼り歩き、ロニーの家に「Evil」と落書きしたり、ロニーの家の前で拡声器を使って罵声を浴びせたり、ロニーに対する執拗な嫌がらせを続ける。
一方、ブラッドとサラの関係も更に近しくなり、子供を連れて会うのを口実に、肉体関係を重ねるようになる。
ラリーは、ひどい男だ。
待ち合わせの男友達が来ないと怒り狂って無関係なかたに八つ当たり。
無関係な八つ当たりの相手は当然、地域住民から蔑視されている「社会的弱者」。男同士の付き合いが何より大事で妻に見捨てられる。
発言や行動がいちいち卑劣な、スポーツマンそのもの。
何よりも気持ち悪いのが、ウーだのオーだのと叫んでアメリカン・フットボールをやっている姿。
チーム・スポーツをやっている男はほんとうに醜悪だと思う。
グアンタナモで収容者を全裸にして積み重ねた横で得意満面にポーズを取っているアメリカ兵の写真が出回っていたけれど、あれとそっくりな表情をしている。
真剣にチーム・スポーツを行うには、チームへの帰属意識を本気で信じ、帰属するチームの価値を信じ切ることが必要。
スポーツのチームなどという明らかに人為的な設定を本気で信じられるとしたら、人為的と扱われず、「自然なものと扱うことを社会権力が要求する設定」なら、なおさら疑いのかけらも持たず信じるだろう。
ラリーは、ひどい男だ。
そう書いたが、「ひどい」は、「ラリー」にかかるのか、「男」にかかるのか。
そんなことは、どうでもいい。
ラリーにとってはどちらでも同じこと、男にとってはどちらでも同じことだ。
男への帰属意識。白人への帰属意識。健常者への帰属意識。
それら、社会規範が価値を設定する帰属意識を本気で信じることが、差別主義の根底にある。
この映画のラリーの場合、というか、チーム・スポーツを行う男の場合は、チーム帰属による自己肯定と、男帰属による自己肯定が、互いに肯定感を補完しあい、増幅させあう。
スポーツが上手にできた自分は男らしくて素晴らしい。男らしい自分はスポーツが上手くできて素晴らしい。スポーツが上手くできた自分は男らしくて素晴らしい。男らしい自分はスポーツが上手くできて…。
懸命にトレーニングして基礎体力をつけて技術を磨きながら、思考は社会規範と一致する狭い範囲だけをぐるぐる循環し、ただただ自己肯定感を肥大させてゆく。
そんなラリーに「新しいことに挑戦してみろ」と薦められるブラッド。
これは、「男なら新しいことに挑戦してみろ」だ。
男になりたがるブラッドは、言われるまま、アメフトをやり、前科者バッシングに加わり、危険な場所でスケートボードをしたり、すぐに流される。
流されやすさを、フロンティア・スピリットと解釈して、男性性に自己陶酔。
男らしさとは、男たちの言いなりであるということ。
男として仕事して、男として遊んで、男として人と付き合って、男としてモノ食べて、男として排泄して、男として呼吸して。
いつだって自己陶酔が可能な便利な装置が「男」や「女」という性別だ。
一方、自分を男ではなく女と位置づけるサラは、不倫の果てに自殺する女性を描いた「ボヴァリー夫人」を、不幸な結婚生活から逃れ、幸せを追い求める勇気ある女性だと、自分を重ねる。
ところがブラッドと行うセックスは、よりにもよって、男が女のヴァジャイナやアヌスにペニスを挿入し腰を振るというやり方。
そんなセックスでも「私は、幸せを追い求めるボヴァリー夫人なのだ」という自己陶酔がサラに快感を与えてくれる。
逃避にすぎないのだから、そんなものだろうか。
居場所探し、自分探しと言って、男でありたがる男、女でありたがる女。それとは知らず権力をふりかざして奔走し続ける男女。
この映画ではそれがどれだけ愚かなことなのか、赤裸々に描かれていて面白い。
ところで! そんなことより、いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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