モーリス

[いぬのえいがひょう] vol.025
モーリス (1987) Maurice
英国の男大学の読書サークル。上級生クライブが下級生モーリスをたらしこむ。クライブとモーリスは、人目を忍んでいちゃつきあう。
しかし、著名な知識人のオスカー・ワイルドが同性愛の罪により逮捕され社会的に抹殺された事件が起こり、それをきっかけに、同性愛嫌悪社会へのクライブの恐怖が顕在化する。
クライブは、モーリスを捨て、「男と女のまっとうな家庭」を望み、良家の娘アンをたらしこんで制度婚をする。
モーリスは自身の性指向は間違っているのかという悩み方をするが、そこへ庭師アレックがあらわれ、モーリスを誘う。
アレックとモーリスは相思相愛になり、ちゅっちゅするが、モーリスはアレックとの関係に躊躇する。
アレックはモーリスに共に旅立つことを望み、ボートハウスで待つと告げる。
1980年代の日本では、同性愛を題材にした映画が相次いで公開された。
『アナザー・カントリー』(1983)、『マイ・ビューティフル・ランドレット』(1985)、『プリック・アップ』(1987)など。
それらの映画で、同性愛という要素は、様々なメインテーマのうちのひとつという扱いだったが、『モーリス』では、テーマを同性愛に特化していたという点で珍しかったと思う。
そのせいか、当時は、映画で描かれる主人公モーリスの変遷を、同性愛者であることの受容という枠のみで見ていた。
でも、最近になってあたしは、この映画はそういった枠以外の見方が出来るのではないかと気付いた。
クライブは、「高尚」とされる難解な文学の読解を共有することで、モーリスとの親睦を深めていった。
モーリスとのセックスすら、その高尚さを言い訳にする。
クライブの上流階級の男性性とモーリスの上流階級の男性性が互いの肉体を求めあう。
社会的承認を得ているものが、社会的承認を得ているものと繋がり、社会性を共有する。
それは、社会のフィルターをかけて同質性を確認する行為だったのではないだろうか。
当時の英国で男性だけに推奨された、難解な文学の読解の共有と同じことだ。
クライブは社会の圧力に屈してアンという妻を取り、モーリスを捨てる。
モーリスは上流階級の中での底辺の身分。クライブは上流階級の中での上辺の身分。
そこに説得力があるのも、それまでにクライブが社会性を崇拝していることが描かれていたからではないだろうか。
モーリスとの性愛も、社会性崇拝の一部なのではないか。
クライブにとってアンは異性愛という社会性のための道具に過ぎない。
それと同じように、モーリスも男性性という社会性のための道具に過ぎない。
ずっと上流階級の内だけで話が進んでいた映画は、後半になって唐突に、クライブやモーリスとは身分違いの庭師のアレックが登場する。
何故その必要があるのか。
話の展開上、クライブに去られたモーリスに次の男が必要であるなら、欲望を抑えられない上流階級のオスカー・ワイルドが登場するように、上流階級内で同性愛を続ける他の同性愛者を登場させればそれで済む。
作者が描きたかったのは、モーリス自身が同性愛者であることを受容するだけでなく、そこに階級というものからの脱却を重ねあわせたいからこそ、アレックを登場させたのではないだろうか。
クライブとは違い、アレックは、モーリスに対して誘う言葉の他の言葉をほとんど交わさない。
発情し盛っているだけにも見える。
身分違いのクライブとモーリスの関係。身分違いのモーリスとアレックの関係。
そのふたつは、身分違いの同性愛、という表向きの共通点はあるものの、質的に違うのではないか。
セジウィックは、ヘテロセクシュアル男性たちの繋がりが、ホモソーシャル+ホモフォビア+ミソジニーによって成り立っていると考察した。
(※クィア・スタディーズ入門(9) http://www.delta-g.org/news/2008/01/post-69.html)
ただし、そのホモソーシャルは、現実に目の前にいる男との繋がりなのではない。
ミソジニーが目の前の特定の女に対する嫌悪というよりも女という抽象概念への蔑視であるのと同様、男という抽象概念への価値設定と価値の共有なのだ。
まず、自分たちが同一化するある特定の概念に価値を設定する。
その特定の概念は、広く共有されることで社会規範となる。
この解釈の枠内で、クライブが価値を信じる高尚な文学も男性性も、同列に語れるだろう。
ホモセクシュアルも、ホモソーシャル+ミソジニーによって成り立つ。
クライブとモーリスの性関係は、女たちがお屋敷の世話をしてくれて、つまり、階級制度が存続していかないと成立しない。
クライブとの関係は、ホモソーシャルとしてのホモセクシュアル。
アレックとの関係は、ホモセクシュアルとしてのホモセクシュアル。
男と男の男性性の共有ではなく、関係定義の概念の共有自体が、ホモソーシャルと呼べるのではないか。
クライブが信奉する、階級とは、ホモソーシャルだ。
クライブが信奉する、階級維持のために行う、ヘテロセクシュアル婚姻は、ヘテロ男女のホモソーシャルだ。
クライブがモーリスに求めたものも、ホモセクシュアルの男性性という概念を介在した恋愛関係も、ホモソーシャルだ。
映画『モーリス』は耽美的で美しいと評するときの、「耽美」もまたホモソーシャルだ。
そもそもソーシャル=社会という概念が共有された権力によって造りあげられたものなのだから。
そして、ジェンダーとはまさに、ホモソーシャルの別名だ。
そのジェンダー=ホモソーシャルは、セクシュアリティへも侵食する。
モーリスは、アレックと共に、あらゆるホモソーシャルからの脱却を望んだのではないだろうか。
モーリスの最後の決断は、異性愛中心主義からの逃亡、耽美からの卒業、それより何より、自身のホモセクシュアリティに含まれていたミソジニーからの脱却だった。
モーリスは、アレックの待つボートハウスではじめて、憎悪を必要としない恋愛関係が有り得ることを知ったのではないだろうか。
ところで! そんなことより、いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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