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クィア・スタディーズ入門(14)

2008年5月19日 10:00 ミヤマアキラ
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【クィア・スタディーズ講座】第3回

「トランスなクィア、ストレートなクィア?」(3)

 

「ジェンダーはパフォーマティヴに構築される」というバトラーの理論が、1990年代のクィア・ムーヴメントにおいて大きな人気を得たのはなぜだったのか。また、クィア・ムーヴメントにおいてトランス的パフォーマンスが力を得ていくなかで投げかけられた疑問とは? 今日のお話はそのあたりをつまびらかにいたします(一連の記事はカテゴリ:クィア・スタディーズをご覧ください)。


●規範をパロディとして引用・反復するーークィア・ムーヴメント

人間は自分たちの自由意志で簡単に規範を変えることはできない。けれども、何十年、何百年と時を経るうちに、規範は変わっていく。そういう悠長な話をしているバトラーが、90年代において、アカデミズムだけでなくアクティヴィズムにおいても、なぜものすごい人気を呼んだかというと、ひとつには、バトラーのパフォーマティヴィティ論がそんなにも悠長なものであるとは、あまり認識されていなかったから。そして、そう認識されなかった大きな理由のひとつは、バトラーがパロディという戦略を語ったからである。

 

現在のジェンダー規範はジェンダー/セックス/セクシュアリティの首尾一貫性を要請するものだ、とバトラーはいう。たとえば、メスの身体を持っている者が女というジェンダーを持っていて、オスの身体を持った男とつがうはずだ、と。これに対して、たとえばドラァグ、レズビアンのブッチなどは、その首尾一貫性を、パロディを通じて突き崩すのだと主張する。ドラァグでは、オスの身体を持ちながら女のようなジェンダー表現をして男性を性愛の対象にする。首尾一貫していないにもかかわらず、女のようなジェンダー表現ができてしまう。レズビアンのブッチも、メスの身体を持っていてもいわゆる女らしい女ではないようなジェンダーを表現できてしまう。しかも、女を性愛の対象として生きていくことができる。

 

そのようなパフォーマンスは、ジェンダー/セックス/セクシュアリティの首尾一貫性を突き崩すものだ、というバトラーの主張に大きな人気が集中した。これまで何度も述べたように、バトラーのパフォーマティヴィティ論は、個々人のジェンダー・パフォーマンスがジェンダーを自由につくりあげていくことができる、という主張ではない。しかし、ドラァグやブッチの例を示したことで、90年代初頭、ジェンダーとは自分の意志で変えられる、つくっていける、とバトラーは主張しているのだ、というような誤解が広まった。それは理論的には大きな誤解だったのだけれども、理論的に正しいかどうかとは無関係に、一部のひとびとに大きな力を与えることになり、90年代のクィア・ムーヴメントの一部において人気を博すことになった。

 

 

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●トランス的なもののパワーと政治的有効性

その背景にあったのは、80年代のフェミニズムおよびゲイ・レズビアン・ムーヴメント/理論の主流が、ジェンダー・ストレートだったこと。ジェンダー・ストレートとはつまり、女性は女性、男性は男性であり、それ以外のジェンダー表現をおこなう存在に対しての許容度はあまり高くない、ということである。

 

それが、エイズ・アクティヴィズムを経て、トランス(ジェンダー)の存在が無視できないものとなっていき、同時に、基本的には「いままでのような(ジェンダー・ストレートなありかたへの)同化政策はとらない、自分たちは自らをクィアと呼んでいくのだ」という気分が高まった。トランスジェンダー的なパフォーマンスは、もっとも明確に同化の拒絶を体現する存在であるという意味で、この時代の気分を代表するものだった。バトラーの議論は、そのような時代の気分に理論的なバックグラウンドを与えたような印象を持たれやすかった論がていたムからズムを経て、トランス(ジェンダー)の

 

可視性(visibility)を重視するクィア・ムーヴメントにおいては、目で見てそのひとがクィアだとわかるような、文字通り可視的なパフォーマンスの持つ力が高く評価されるようになっており、バトラーの議論はそことの親和性が高かった、と言うことができる。「ジェンダーにはセックスという裏付けはない」という議論も、ならば身体が男性(女性)でも女性(男性)ジェンダーの表現をしてもいいのだ、という肯定的なムードを補強するものとしてとらえられた。

 

そもそも英米においては、トランス的なもの(トランスジェンダーだけでなく、トランス自認を持たない女性的なゲイ/ブッチ・レズビアンなども含む)がひじょうに抑圧される、あるいは直接的な暴力の対象となる、という歴史が長くつづいている。その部分を読み替えて、トランス的なもののパワーと政治的有効性に注目する議論が、運動の面からも理論の面からもひじょうに重要だったことは間違いない。

 

 

●トランス的表現の称揚に対する疑問

ただし、クィア・ムーヴメントやクィア理論がトランスジェンダー的なパフォーマンスを称揚していくなかで、問題も同時に出てくる。たとえば、トランスジェンダー的なものの可視性における政治的文化的なインパクトの大きな部分は、目に見えるジェンダー表現(服装、仕草、しゃべりかたなど)となんらかの女性性/男性性との乖離によって生じているのではないか、という問題。

 

要するに、目に見えるジェンダーが、「本来の女性性/男性性とはこうあるべき」と思われているものから乖離すればするほど可視的であり衝撃的であって、政治的にも理論的にも望ましい、というような雰囲気ができていく。それは同時に、ジェンダー表現が身体上のセックスから離れれば離れるほどいい、ということにも容易につながっていく。

 

このとき、たとえば「トランスセクシュアルはどう理解すべきなのか?」という問題が出てくる。トランスセクシュアルがジェンダー・アイデンティティとジェンダー表現と自己身体の性を合致させたい、と考えるとしたら、それはクィアではないのか。

 

あるいは、レズビアンのフェムをどう理解するのか。バトラーの議論からすると、メスの身体を持ちながらジェンダー表現は女性的ではなく、性愛の対象を女性としているブッチ・レズビアンは、政治的に大きなパワーを持っている。では、メスの身体を持ち、女性的なジェンダー表現をおこない、女性を性愛の対象とするフェミニンなレズビアンはどうなるのか。ブッチ・レズビアンよりクィアではなく、体制順応的だということになるのか。

 

さらに、その方向性をおしすすめた場合、ヘテロ女性は切り離さざるを得ないのだろうか。身体の性別とジェンダー・アイデンティティが合致していて、しかも性愛の対象が男性であるヘテロ女性たちが、そのことを理由に体制順応的でクィアではないとみなされるとすると、クィア・アクティヴィズムとフェミニズムのつながりは断ち切られてしまわないのか。

 

 

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●クィアは身体の改変を否定するのか?

クィアというのは、自分の身体から離れていかなくてはならないのか。だとしたら、身体性から離れれば離れるほどクィアであるということは、メスの身体があってメスではないようなジェンダー表現をすればするほどクィアであるという方向に話が進んでしまうと、逆に言えば、身体性というものは変更が不可能である、ということになる。

 

そもそも、メスの身体はどうしようもなくそこにあって、そこから離れれば離れるほど政治的にラディカルだということになると、もともとバトラーが主張していたことと矛盾してしまう。身体性から離れれば離れるほどクィアであるとする考えかたは、逆に言えば、身体性それ自体を、文化的な介入を受けつけない、変更不可能な存在、「離れる」べきスタートラインとして想定してしまうことになるからである。同時に、このときの「離れるべき身体性」が、「女性身体」に接近しているのではないかという批判も出てくる。女性性/女性身体に対する忌避感・嫌悪感(ミソジニー)なのではないか、という問題提起だった。

 

これはバトラー個人に向けられた批判というよりも、クィアというものが90年代にアカデミズムやアクティヴィズムのなかでひじょうに流行してきたところで、クィアがある種特権的なゲイ男性とほぼ重ね合わされていく状況に対して、フェミニズムやレズビアンのなかから出てきた批判といえる。

 

 

●ドラァグ表現は「本来の女性性」を逆に強化する?

さらにそれと並行して、ドラァグの場合、身体に与えられた性別から離れたジェンダー表現をするだけではなく、「本来のジェンダー表現」からも距離をとり、それをパロディ化するところに、ラディカルさが見いだされることが多い。つまり、男性身体が単に女性身体を真似るのではなく、「これはパロディである」ということを訴えなければならない。ストレートに「なんてきれいな女性だろう」と見られるようではドラァグにならず、そこには「本物」との違いを際立たせる誇張やパロディの要素が入ってくる。

 

このとき、誇張やパロディの結果としてあらわれるドラァグ的な女性性が、しばしば労働者階級の女性、あるいは「非白人」の女性の女性性と近似してしまうのではないか、という批判もなされている。つまり、白人の中流階級のヘテロ女性を「本物の女性」として想定し、そのパロディを演じ、そこからの距離をとろうとすることで、ドラァグは人種や階級などに基づくジェンダー表現の違いを利用しているのではないか、と。その場合、ドラァグは、すでに周縁化されているような女性性の表現(労働者階級の女性性の表現、あるいは黒人の女性性の表現、など)をさらにおとしめることになっている、と言うことも可能になる。

 

ドラァグでなくとも、パロディや誇張を通じてジェンダーとセクシュアリティの差異を可視化しようとすればするほど、反対に、まったく目に見えないものとして特定のジェンダーのありかたやセクシュアリティのありかたを固定化してしまうことになる。先述の例でいうと、白人で中流階級のヘテロ女性のジェンダー表現こそが本来の女性性なのだということが、ドラァグをすればするほど逆に強化されるのではないかという批判が可能になるのである。

 

 

もちろん、ここに挙げたさまざまな批判は、トランスジェンダー的なものの再評価、可視性の追求そのものが政治的に間違っていると主張しているわけではない。バトラーにはじまり、トランス的なものの称揚にいたった(80年代後半から90年代なかばにかけての)クィア・アクティヴィズムの後からそういう批判が出てきたということは、クィア.スタディーズやクィア・アクティヴィズムがだんだん熟してきて、トランス的な表現を評価したうえで、さらに、どういう可視化のしかたがより望ましいのか、どういう可視化の場合にどんな問題が生じるのか、ほかに悪い影響はないのだろうか、というような細かい部分に注意が払われるようになったということである。

 

<第3回・おわり>

—————————

イラスト:小鹿 夏

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オペラハウスのLGBTナイトに関連して何か書こうということでネットを使っていろいろと調べているうちに、やっぱりとりあえず必要な知識がいろいろあるじゃない!?ということで、難しそうだと思って避けてきたクイア・スタディーズの記事も読んでみました~とても面白い!クィア・スタディーズ講座は全6回ということですから、まだ半分残っているのですよね。後半部分についての記事も楽しみにしています。(と、なんだかドンドンはまっていく自分・・・。)

キリハラさま

>オペラハウスのLGBTナイト

ぜひお待ちしてますーv

>クィア・スタディーズ講座は全6回

ええと、パフスクールで行われた講座は全6回なのですが、デルタGでとりあげる「入門」シリーズとしては、次の第4回で終了とする予定だったりします(こっそり告知)。

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