ノーカントリー

[いぬのえいがひょう] vol.029
ノーカントリー (2007) No Country for Old Men
テキサス、1980年。
荒地でのハンティングの最中、麻薬取引でもめて銃撃戦が行われたらしい現場に出くわした、ベトナム帰還兵のモス。
彼は、そこで見つけた死にかけた男を置き去りに、200万ドルもの大金を盗んで持ち帰ったため、麻薬取引に絡んでいた非情な連続殺人者、シガーに執拗に追われることになる。
シガーは、モスを追う道中で、情報を得るためや、少し邪魔になったためや、車を奪うためなどで、次々と殺人を行っていく。
お話の語り手は、初老の保安官ベル。
冒頭と結末、また、劇中登場するたびに、同じことばかり語る。
「最近の犯罪は理解出来ない。冷酷無慈悲な殺人事件が起こるのは、古き良き精神が失われたせいだ」という言い分を繰り返し、
題名にもなっている“No Country for Old Men”、古い男には居場所がない、という嘆きだ。
保安官ベルは、この事件を捜査しているものの、モスともシガーとも一度も出会わない。
お話の進行に彼は一切絡まない。通行人1のようなもので、いなくても問題ないのだ。
彼は、事件の解釈を行うためだけに存在する。
そして、嘆かわしいことに、この映画の主役はこの保安官ベルなのだ。
金を盗んだその夜、置き去りにしてきた瀕死の男が気にかかったのか、山積みのまま放置の麻薬も手に入れる気だったのか、もう一度現場に向かうモス。
モスは、妻カーラに「今夜俺は死ぬかもしれない」と格好をつけて、家を出ていく。
虚勢を張ることが男の証。モスはまさに男の中の男だ。
カーラは、夫の強さに全幅の信頼を置く、「古き良き」妻。
夫の失踪中にやってきた捜査官が、モスが連続殺人犯に追われていることを話しても、「彼はタフだから自分でなんとかするでしょう」と、夫を信じる。
夫に刃向かわず、外部には夫の顔をひたすら立て、性差別的性別観の維持に貢献し続ける旧来の女。
モスとカーラ夫妻の家庭は、男が威張り続け、女が男の機嫌を伺い続ける、いかにもドメスティック・バイオレンスが日常と予想される「昔ながらの」家庭だ。
しかし、この映画で夫婦間の暴力がないのは、当然だ。
彼らは、無感情に淡々と邪魔者を殺害してゆく冷酷な殺人鬼シガーに狙われている。
殺人鬼が暴れまわっている最中には、いくらなんでもドメスティック・バイオレンスは起こさないだろう。
映画は、モス夫婦が関係してくる前から、シガーの殺人の描写を執拗に重ねる。
どう? 怖いでしょう? こんな怪物が闊歩していたら、恐ろしくて町を歩けないでしょう?
そうしてシガーの絶対悪を見せつけることで、シガー以外の全員を、いつ怪物に殺されるか知れない被害者予備軍と印象づける。
モスのような泥棒ですら、怪物シガーとの対置によって、善良な者というカテゴリー側と扱う。
シガー=悪 シガー以外の全員=善 という、単純な二項対立の構図になっている。
その中へ、語り手である保安官ベルが度々登場し、シガーに自分が「理解できない最近の犯罪者」というレッテルを貼る。
そこで、二項対立の構図は 「理解できない最近の犯罪者」=悪 それ以外の全員=善 に書き換えられる。
登場してすぐ殺されるためパーソナリティがよくわからない者を除くと、この映画には何故か、旧来の男尊女卑崇拝者たちと、殺人鬼シガーしか出てこない。
そこを考慮すると、映画全体を通して観た後に全体をまとめると、 男尊女卑崇拝者=善 となる。
かつてナチス・ドイツの宣伝部は、ユダヤ人は醜い強欲な金貸しだと、乱暴な単純化を望む大衆心理を標的にした印象操作をした。
強欲な金貸しは、強欲な金貸しであって、それ以外の何でもない。
それを 強欲な金貸し=ユダヤ人 としたのがナチスの手口だ。
冷徹な殺人鬼は、冷徹な殺人鬼だ。
この映画の中で為される、二項対立の構図は、そのままではそういう露骨なプロパガンダには見えないかもしれない。
しかし、一旦保安官ベルの嘆きのフィルターを通し、更に映画という枠組みを通すことで、シガーの意味は変容する。
冷徹な殺人鬼=男尊女卑を崇拝しないすべての者 になってしまう。
この映画は、「冷徹な殺人鬼は怖い」を「古き良き権威に従わない者はすべて怖い」にすり替えようとしている。
とんでもない印象操作だ。
保安官ベルは、最近の犯罪を理解できないと言いつつも、彼なりにこじつけている。
「最近の」と解釈しているのだ。
旧来のものを善とし、その範疇に含まれないものに悪のレッテルを貼って納得するのだ。
悪を、理解できないと排除する。
それは正当と認めるとしよう。しかし、その正当性はそこまで。
その考え方からはすぐに、善か悪かの問いは消され、権威の理解できないものを排除することにすりかえられる。
しかもその理解を行う主体は、『ノーカントリー』では、旧来の、「古き良き」、男尊女卑の体現者だけ。
性差別的価値観でのみ物事を認識する者の偏狭な理解力から外れたものは、すべて悪であり、排除しなければならない、となってしまう。
これは、絶対悪が描かれた映画ではない。
自分たち性差別主義者は絶対善だ、という主張を、しかし表立って主張はせず、卑怯にも印象操作で行おうとする映画だ。
劇中、「最近の者はユーモアを持たない」という台詞が出てくる。
偉い自分たち男が、自分たち男が男と認めない偉くない者を蔑んで楽しむユーモア。
その「誇るべき高等文化」が薄れることは彼らには嘆かわしいことなのだろう。
『ボーイズ・ドント・クライ』(1999)では、GIDのブランドンが、GIDであることを理由に、集団からなじられ強姦され嬲り殺しにされた事件が描かれた。
『ノーカントリー』でのシガーの一連の殺人は、極めつけの冷酷な犯罪として扱われる。
が、その殺人はすべて、シガーの単独犯行で、殺害のために不必要な暴行は加えず、最も早く殺せる方法を取っている。
どちらが残虐だろうか。
たいていの場合、大勢で少数を殺すよりも、少数で大勢を殺したほうがより残虐とされ、重い刑罰になる。
それは、加害者の殺人のしやすさが判断基準としか思えない。
自分が被害者になるとしたら、どちらがよりましだろうか。
集団から蔑まれ嬲り殺され、死んだ後も偏見の目を向けられ、加害者は「GIDが気持ち悪いのは理解できるが殺人は悪い」という、偏見を持つことに関する理解者に恵まれている。そんな事件。
一名の異常な殺人鬼に通りすがりで殺され、死後、その不運を悲しまれ、加害者は恐ろしい怪物として蔑まれる。そんな事件。
どちらの犯罪がより冷酷だと言うのだろうか。
保安官ベルが理解できないのはシガーであって、ブランドンを殺した者たちは理解できるのだろう。自分たちと同じ、「古き良き」者たちが犯した犯罪だから。
何が冷酷な犯罪で何が冷酷な犯罪ではないのかの決定権は、彼ら、権力者である、良識ある一般市民が独占している。
『ノーカントリー』は、モスの殺害を恐ろしいと印象づけるためか、殺害シーンは、はっきりと飛び散る血しぶきを見せる。
スプラッター・ホラー顔負けの残酷描写の連続だ。
この映画と同じテキサスが舞台の『悪魔のいけにえ2』(1986)では、保安官レフティがチェーンソーを振り回しながら嬉々として殺人一家と戦う。
狂った殺人一家と同じように狂っている保安官を描くことで、コメディの体裁で、平等な相対化を維持していた。
『サランドラ』(1977) と、そのリメイク『ヒルズ・ハブ・アイズ』(2006)では、善良とされる、米国の平均的な白人一家が殺人鬼たちと戦うが、その家庭が殺人鬼たちよりも残虐性を見せるという皮肉が描かれた。
『ノーカントリー』では、善悪について饒舌に語るのは保安官だけ。観客に対して、片側だけの視点を暗黙に強要する。
ハリウッドの「まっとうな人々」向けのドラマやアクション映画では、危険にさらされると男に庇護されるだけの女しか登場しなかった1970年代。
泣きながら悲鳴をあげて逃げ惑い男に守ってもらうだけの女など、男が見て悦になるためにそう設定された妄想の女であって現実的ではないと、スプラッター・ホラーというジャンルは、殺人鬼に立ち向かう女を登場させてきた。
偉そうなマッチョ男は男としてのナルシズムを満たすために恰好つけて危険な場所に行って、真っ先に殺人鬼に殺されるという楽しいパターンも定型になった。
そんなリベラルな先見性も持っていたのが、まっとうでないとされる「異常な趣味の人々」向けのB級ホラー映画というジャンルだ。
その流れがあってこそ、『羊たちの沈黙』で、ジョディ・フォスターが自らフェミニスト・ヒーローと呼んだ捜査官クラリスの登場へと繋がってゆく。
マッチョ男と男に媚びる女を肯定する『ノーカントリー』は、女はただの殺され要員。ろくに抵抗もしない。マッチョ男ばかりしぶとく「タフに」戦いを続ける。B級ホラーが培ってきたショック表現だけは丸ごと盗みながら、性差別意識を自己修正してきたホラーの歴史に泥を塗っている。
そして、いけしゃあしゃあと、ホラーなどのジャンル・ムービーははじめから疎外されている米アカデミーの作品賞を受賞。
この、泥棒が。
追いかけてきた麻薬取引の一味が、逃亡するモスに犬をけしかける。
シガーの殺人は何の迷いもない点が恐ろしいと他の登場人物たちは言い切るが、モスは何の迷いもなく犬を射殺する。
犬の射殺は原作小説にはない場面で、わざわざ映画で追加されたらしい。
犬は三匹出てくる。一匹は既に殺された死体。一匹は殺される。もう一匹は怪我をして足をひきずっている。
猫も何匹か出てくる。猫は殺されない。怪我もしない。
製作者は、犬に恨みでもあるのか。
いぬかわいいよー! いぬかわいいよー! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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【全国公開中】
・公式サイト(http://www.nocountry.jp/)
【関連DVD】
監督: キンバリー・ピアース
出演: ヒラリー・スワンク, クロエ・セヴィニー
形式: Color, Dolby, Widescreen
字幕: 日本語, 英語
販売元: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
DVD発売日: 2007/01/26
時間: 119 分
監督: トビー・フーパー
出演: デニス・ホッパー, キャロライン・ウィリアムズ
形式: Color, Dolby, Letterboxed
字幕: 日本語, 英語
販売元: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
DVD発売日: 2006/07/14
時間: 100 分
監督: ウェス・クレイヴン
出演: スーザン・レニア, ロバート・ヒューストン, ディー・ウォーレス
形式: Color, Dolby, Letterboxed
字幕: 日本語
販売元: キングレコード
DVD発売日: 2006/03/08
時間: 89 分
監督: アレクサンドル・アジャ
出演: キャスリーン・クインラン, アーロン・スタンフォード, エミリー・デ・レイヴァン
形式: Color, Dolby, Widescreen, Dubbed, Subtitled
字幕: 日本語
販売元: アミューズソフトエンタテインメント
DVD発売日: 2008/04/25
時間: 107 分
監督: ジョナサン・デミ
出演: ジョディ・フォスター, アンソニー・ホプキンス, スコット・グレン, テッド・レビン
形式: Color, Dolby, DTS Stereo, Widescreen
字幕: 日本語, 英語
販売元: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
DVD発売日: 2006/10/27
時間: 118 分
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