【新連載】「名前はまだない」
ミヤマです。定期的にコラムを書くことにしました。月3回です。今日が5月6日なので、毎月6日、16日、26日にアップデートします。ふぇみんの真似っこみたいですが実はそうなんです。初回は、ふぇみんで書いた映画評をお送りします(編集部の了承を得て掲載しています)。
冒頭からラストまで終始BGMがない。心象風景をあらわすシーンも回想シーンもない。これ見よがしのズームアップもスローモーションもない。つまり、観客の感情を故意に揺さぶるための小手先の技法はひとつも使われていない。
にもかかわらず、いや、だからこそ観客は映画の人物たちとずっと行動をともにしているような、同じ時代の空気に取りまかれているような感覚にとらわれる。その時代の空気とは、いつもだれかに監視されているような、気が休まる間もなく緊張を強いられるような、じつに不穏なものだ。
1987年当時のルーマニアは独裁政権下にあり、秘密警察がつねに国民を監視して反乱分子の摘発や言論統制・弾圧を行なうといった恐怖政治が敷かれていた。経済面では強引な工業化政策によって多額の対外債務が生じ、食糧などの国内必要物資まで返済に当てたため、国民は過酷な飢餓状態におかれた。
また、未来の労働力確保を目的に制定された中絶禁止令(政令770号)により、いかなる中絶も厳罰に処せられた。避妊も禁じられ、コンドームもいつしか店頭から消えた。だが、食糧事情の悪さもあって、この政策は結果的に孤児や捨て子の大量発生を招いた。
***
物語は、大学寮のルームメイト・ガビツァの妊娠中絶をサポートするオティリアの長い1日を綴ったもの。オティリアは、体調の悪いガビツァに代わって中絶を行なうホテルの予約や、闇の中絶医師ベベを呼び寄せるなどするが、ベベは「当初の約束と違う」と不機嫌をあらわにする。それもこれも、「本当のことを言えば中絶を断られるかも」と心配したガビツァがベベについた些細な嘘の積み重ねのせいだった。
中絶の違法性を楯にして、ベベはふたりを追いつめる。中絶に手を貸せば自らの立場も危うくなるのだから、それなりの見返りをよこせと、法外な中絶費用のほかに、ふたりの肉体を提供しろ、自分のセックスの相手をしろ、と要求するのである。
窮地に立たされたオティリアは決断を迫られ、ほぼ瞬間的にペペの要求を飲むことにした。オティリアは気丈にもレイプに耐えたが、ガビツァはレイプのあとバスルームで泣き崩れる。
その後、ペペはようやく約束通りガビツァの中絶手術を執り行う。帰り際に、まっとうな医師のつもりで術後のガビツァをいたわるような言葉をかけるが、ふたりには空々しく響く。
オティリアはなぜ身の危険を冒してまでもガビツァの中絶を実現しようとしたのか。ガビツァのような頼りない、自分ひとりではなにひとつものごとを進められない女性を助けるために、わが身を犠牲にしたのはなぜか。
オティリアには、医大生らしきアディというボーイフレンドがいる。かのじょはアディからお金を借りて、ガビツァが予約したというホテルに向かう。要するに、アディから借りたのは中絶費用なのだが、そのことはかれには言っていない。
1日がかりで中絶を終えた後、オティリアはアディの母親の誕生パーティに出向く。そこでかのじょが煙草を吸おうとすると、アディの父親が、「女はボーイフレンドの前で煙草を吸うものではない」とたしなめる。
そして、オティリアはアディに、「わたしがもし妊娠しても、あなたの助けは借りない。女ともだちに助けてもらう」と語る。観客の目には奇異に映るシーンだろう。健全で、恋人に優しいアディをなぜオティリアは信頼しないのかと。
だが、アディの「健全」さや「優しさ」は、女という弱者を踏み台にして成立している男性中心主義的、性差別的な社会規範によって成り立っていることを、オティリアは見抜いている。男も女も国家の抑圧を受けているが、男たちはさらに弱い女たちを抑圧することで、せめてもの気晴らしをしている。それは中絶医ペペのやったことを見ればわかる。
女性の正当な権利が国家に剥奪され、望まない妊娠を強要される時代状況では、こどもを産んでも地獄、中絶しても地獄だ。オティリアのみならず、かのじょと同時代を生きた女性たちにとって、中絶を望む仲間の女性は、昨日のわが身であり明日のわが身だ。だから、見捨てるわけにはいかない。それがたとえガビツァのように、どんなに愚かに思える女性であっても、だ。その愚かさは女性の本質などではけっしてなく、性差別的な社会環境によって植え付けられたものであり、その環境を生き延びるための、やむにやまれぬ処世術なのだから。
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中絶を通じて重く苦々しい秘密を分有したオティリアとガビツァのあいだには、確かな連帯が生まれる。その連帯のありかたはけっして喜ばしく輝かしいものではないが、連帯を手放した先の孤立には、女性の自由を獲得する道はない。オティリアははっきり言ってガビツァが嫌いだが、連帯は個人的な「好き嫌い」で行なわれるものではない。
中絶行為の実践は、女性の自由を獲得するための意思表示、国家への抵抗である。「オトコとのレンアイ」と「オンナとのレンタイ」を秤にかけて前者をとることは、女性の自立と自由を放棄するも同然なのだ。
どんな映画もしょせんフィクションだと言われる。だが、この映画におさめられているのは、大文字の歴史から取りこぼされた女性たちの紛れもない現実だ。そして、女性たちはそのことを知っている。
(ふぇみん2008年2月25日号初出の原稿を修正・加筆)
【補足】
先日、この作品を評した秀逸なブログエントリを見つけたので貼っておく。
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