おこげ
[いぬのえいがひょう] vol.032
おこげ (1992)
小夜子は主婦の友達とその子供たちと一緒に海水浴に出掛けるが、そこはハッテン・ビーチだった。
ゲイやレズビアンを変態だと嫌悪する友人を横目に、ゲイたちに魅かれていく。
剛とトチが海の中でキスしている姿を、綺麗だとうっとり見とれる。
革職人の剛と既婚のサラリーマンのトチは、浅草のハッテン映画館で知り合って以来、遠距離交際中。
後日、小夜子は偶然にゲイバーで剛とトチに再会する。
剛の兄夫婦と同居の母が突然剛の家に転がり込んできたため、一緒に夜を明かす場所がなくなって困っていた剛とトチ。
小夜子は、「うちに来れば? うちで愛しあってもいいわよー」と自分のアパートの一室を提供する。
それ以来、剛とトチは頻繁に小夜子と共に過ごすようになる。
父の性的虐待を受けていた小夜子。暴力でしか他者との関係を築けない普通の男たちしか知らなかった小夜子は、優しく接し合う剛とトチの姿に、憧れを募らせていく。
「あなたたちといると心が安らかになる。自分があるがままの姿でいられる、って感じ」
「男が好きなんだ。ホモなんだよ、僕」とカミングアウトをする剛に対して無理にでも制度婚を押し付ける親類たち。
トチの妻はトチの不貞を責めるのではなく、トチの同性愛を誹謗する。
子供と海水浴に来た母は、ハッテン・ビーチで「お母さん、なんかここ、変じゃなあい?」と子供に言われ、「見ちゃ駄目、見えても、見えなかったの!」
都合の悪いものは見ないことにする。
そう、この映画の小夜子以外の異性愛者は、異性愛に都合のいいもの以外の何もかもから目を背け、異性愛の家庭や社会を、暴力を駆使して必死に守る。
一方、小夜子は、剛にそれまで知らなかった誠実さを感じ、憧れていた優しさのファンタジーを剛たちゲイに投影する。
その後、カミングアウトに関する、異性愛社会との関係の取り方に関する見解の違いから剛とトチはもめて、交際は破綻してしまう。
剛は、元自衛官の粗野な異性愛男の外見に魅かれる。
小夜子は、剛と男の関係を取り持つために、男と会うが、男は、嫌がる小夜子を「好きなんだよ」と言いながら押し倒しひっぱたき強姦する。
剛が惚れている男なら、不本意なセックスも構わないと抵抗をやめる小夜子。
「私を男だと思ってね。剛だと思ってね」
小夜子は、そのセックスで妊娠してしまう。
小夜子は、パーソナリティのすべてをかけて、剛に惚れている。
セックスは、互いのパーソナリティを理解するためにするというかたがいる。
性的欲望ではなく全人格的関係に価値を置く。
そんな、ひとつのセックスの理想。
理想とは、意図があって想定された概念、倫理的価値が付与されたファンタジーである。
相互理解のセックスだけではなく、すべてのセックスは、その正当性の是非はともかく、各種ファンタジーに基づいて生成された欲望によって遂行される。
ファンタジーとは、虚構である。
虚構の中に、相手の真実の姿など存在しうるはずはない。
セックスが結果として相互理解に繋がるということはあるかもしれない。
あらゆるセックスのファンタジーは虚構と言えるが、セックスを遂行する際のリアリティとして機能するものが、セックスのファンタジーだ。
しかし、相互理解を望んでセックスするということは、セックスを、セックス外の虚構によって遂行するということだ。
そうではなく、相互理解のファンタジーこそがセックスのファンタジーそのものだとするならば、それは、ただセックスをしたいと希望することと何も違いはない。
もちろん、セックスのファンタジーはパーソナリティの一部であるとも言えるが、「あなたが望むセックスを教えて」そう言えば済むだけのことだ。
よって、相互理解を望むセックスが、相互理解をもたらすことは有り得ないのである。
そんなことは、ハッテン・ビーチで遊んでいるゲイの大部分には、経験から了解できていて、言うまでもないことだろう。
女性向けのセックス・ファンタジーには、情報が不足している。
男性向けのセックス・ファンタジーもまた、別な情報が不足している。
「見えても、見えなかったの!」と、見ることは禁止されている。
セックス・ファンタジーが自分だけのもの、または自分たちだけのものであれば、情報が不足することはないだろうに。
自分のものではないセックスは、プライベートなものではない。常時、既存のセックス・ファンタジーを参照して欲望が規定される。
小夜子が剛に全人格的に投影した関係性の理想は、現行のセックスの規範が女性に設定するセックス観と相似している。
ゲイのハッテン場は、セックスの相手から暴力を受ける危険性は少ない。
ハッテン場ではファンタジーの虚構性を知る経験を安全に積み重ねていくことが出来る。
異性愛女性のセックスは、ゲイ男性のセックスとは逆に、即物的な性暴力にさらされる危険性が高い。
女性に与えられたセックス観からは暴力の情報が遮断されているのだ。
女が相互理解を望むことが、相手の男を理解することの妨げとなる。
皮肉なことだ。
男女の分断によってはじめから破綻している異性愛下の関係は、分断を引き起こしている性規範自体が、自身の破綻を認識させないように自己言及し表層を取り繕う。
異性愛の性規範は同性愛にも影を落とし、剛とトチの関係を妨げた。
映画の最後、剛や小夜子は、異性愛、同性愛といった既存のカテゴリーを参照することなく手づくりで関係性を築いてゆく。
相互理解の可能性は、異性愛はもちろん、同性愛という手垢のついた呼び名の中には残ってはいない、と言っているかのようだ。
ところで! そんなことより、いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: おこげ
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.delta-g.org/mt/mt-tb.cgi/384





















コメントする