タクシデルミア ある剥製師の遺言
[いぬのえいがひょう] vol.0
タクシデルミア ある剥製師の遺言 (2006) Taxidermia
3部構成のこの映画では、各部それぞれ、祖父、父、息子、3名の異性愛男性の生涯が描かれる。それぞれの全く異なっていると扱われるであろう、それらは、同じ内容の生涯。「シュールで異常」と言われるであろう、それらは、巷に溢れているのと同じ「平凡な」生涯。
第1部は、祖父、モロスコヴァニ。
第一次世界大戦下のハンガリー。
彼は、軍隊のマニュアル化された規律に従って、上官である中尉にこき使われている。
豊満な肉体の妻と暮らす中尉は、ヴァジャイナは宇宙の中心だと熱く語る。
女性を崇拝することによって、虐げ征服するときの快楽をより強めるのだろう。
一方、童貞のモロスコヴァニは、女とのセックスを夢見続けている。
女たちの入浴を覗いては興奮し、女たちの排泄を覗いては興奮し、モロスコヴァニはペニスをいじり続ける。
モロスコヴァニにとってセックスとは、ヴァジャイナにペニスを突き立て女を陵辱することで射精の快感を得ること。
中尉の性別観と同じものだ。
彼らのペニスは、彼ら自身のペニスではない。巨大な男性性崇拝の装置だ。
しかし中尉と違ってモロスコヴァニは、それを作動させる機会に恵まれず、日々自慰行為に勤しむ。
童話「マッチ売りの少女」の世界に入り込み、純粋無垢と想像する少女に自分のペニスを触らせて汚す妄想に浸りながら、モロスコヴァニはペニスをいじる。
女たちの雪合戦を覗いて興奮し、ペニスを板と布と油脂で造った人工ヴァジャイナに突きたてたペニスは鶏につつかれる。
ペニスから炎を吹き上げ、精液を宇宙に飛ばす妄想に浸る。
そんなモロスコヴァニに突然セックスの機会が訪れる。
発情した中尉の妻がペニスを求めてきたのだ。
モロスコヴァニは、幻想のペニスを幻想のヴァジャイナに乱暴に突き立てる快感に、中尉の妻は内面化していた幻想の女性性が味わう陵辱の快感に、それぞれ恍惚の叫びをあげる。
もちろん、物理的にも、性器接合は行われた。
俗に言う、「健全」な異性愛者であり、「健全」な男である。
モロスコヴァニは、翌朝、自慰行為の最中に、中尉に射殺される。
第2部は、父、カルマン。
共産主義を騙った国家権威崇拝政権の恐怖支配が行われていた時代のハンガリー。
カルマンは、中尉の妻とモロスコヴァニの性器結合の結果、製造された。
大人になったカルマンもまた、父モロスコヴァニと同じ、異性愛者となっていた。
カルマンは、男らしく国家を背負って立ち、国民の尊敬を勝ち取ろうと懸命だ。
そのためにカルマンはスポーツを行う。
ストイックなトレーニングを重ねて、正々堂々と戦い、優勝を目指す。
『君の涙、ドナウに流れ ハンガリー1956』(2006)では、恐怖支配に抗うレジスタンスの姿と並列で描かれた、水球選手の熱い男たちの姿。
カルマンの勇姿は、彼らと重なる。
男が男であるためには、男社会が自作自演で社会の下に設定した、男が際限なく尊敬を得るための舞台で活躍しなければならないのだ。
スポーツ・マンならば、天賦の才能に加えて、懸命な努力によって勝ち取ったカルマンの成功に涙を禁じ得ないだろう。
カルマンの行うスポーツは早食い大食い競争だ。
果てしなく口と胃袋を動かし続け、食物を高速に大量に摂取し、すぐさま大量に嘔吐し、口元に嘔吐物を垂らしながら、また大量にかきこむ。
スポーツ・マンとしての成功は、スポーツの成功だけでなく、マンとしての成功、つまり、女を従えることも必要だ。
カルマンは、女を欲しがる。
望みどおりカルマンは、同じく早食い大食い選手のギゼラと恋愛し、「誰もが羨む」、「理想的な」成功者の家庭を築きあげる。
(ただし、彼らがもうけた息子は、結婚式の夜にギゼラが他の男と交接して造ったもの)
俗に言う、「健全」なスポーツ・マンであり、「健全」な男である。
後日、ギゼラは尊大なカルマンの元から去ってゆくことになる。
第3部は、息子、ラヨシュ。
現代のハンガリー。
ラヨシュは、極度の肥満で身動きできない父カルマンと3匹の肥満猫の世話をしながら、剥製師の仕事をしていた。
ラヨシュもまた、父カルマン、祖父モロスコヴァニと同じ、異性愛者となっていた。
ラヨシュはスーパーのレジ係の女性を欲するが、彼女は彼を冷たくあしらう。
スーパーのレジ係の男性は、ラヨシュに優しげに接するが、ラヨシュは男性店員からの態度は受け付けない。
いかにも、モテない異性愛者の男らしい。
もっともっと男らしくなりたいのに、女たちに相手にされない点で、男らしくなれないラヨシュ。
父カルマンは、男らしいスポーツ・マンだった自分を誇りにしている。
スポーツの結果である、動けないほど太った身体は、男の誇りの証。
かつての早食い大食い競技を記録したビデオは、男の誇りの証。
カルマンは、日々男の誇りを自慢し、息子ラヨシュの痩せた身体を馬鹿にする。
ラヨシュは、父のように男として何かを成し遂げたいと願いつつ、無力な自分とそれを責める父に苛立つ。
そんなある日、父カルマンは、3匹の猫に腹を食い破られ、内臓を引きずり出され、死亡してしまう。
ラヨシュは、父カルマンの亡骸を剥製にする。
父の剥製化の作業をしながら、ラヨシュに、あるアイディアを考え付き、実行に移す。
それは、歴史に残るだろう決定的な社会的承認を得ることができる、ある、究極の剥製作品の作成。
そして、ラヨシュは、父の早食い大食いの偉業を越えた社会的成功を勝ち取るのだった。
俗に言う、「健全」な社会人であり、「健全」な男である。
「戦争の中で人は生命力にあふれ、平和な現代では死んだように生きている。そうした皮肉な対照を通じ、家族の歴史を描こうと思った」とパールフィ・ジョルジ監督は語る。
この映画では、男しか描かれていない。
戦争の、平和の、家族の歴史とは、男の歴史でしかなかったのだ。
第1部の、性的な快感を求める欲望。第2部の、社会的に成功したいという欲望。
第3部の、生きた証を遺したいという欲望。そういった欲望によって、人間社会と呼ばれる男社会は成り立っている。そして、それら3つの欲望はすべて、男が社会的に男であると自認し、男ではない他者より優位であることに自己陶酔する欲望だ。
社会的男性性は、支配欲しか持たず、他の欲望は支配欲が形を変えてあらわれたものに過ぎないのか。
ペニスという器官になぞらえた男という概念を肥大化させるために(映画内で出てきた言葉を借りれば)、「ある者は空間を、ある者は時を」用いる。
この映画は、男という概念の正体を暴き、男が男であることのナンセンスさを描き切っている。
監督が語る、「家族」というものもまた、男や女という概念に一致することによる社会承認という権力を得る快楽を増幅させる装置として機能する。
男たちが、得意げに、訳知り顔で言う「社会」とは何を指すのか。なんのことはない。
「社会」と言うと巨大なものに聞こえるけれど、たかだか数cm~数十cmペニスのことを大袈裟に言っているだけなのだ。「社会人としての心得」などと、社会的男や社会的名誉男の女がよく言う。
それは、ただただ、男や女という、ある時代の妄想の基準に一致していることの価値を信じて、集団で自己陶酔するための、心得。
「ペニス人としての心得」だったのだ。
もし、社会に向けて男を名乗るヒト、社会に向けて女を名乗るヒトに出会ったら、この映画を思い出して、ペニス人の剥製だと思えばいい。
「セックスはつねにすでにジェンダーである」とジュディス・バトラーは言う。(※クィア・スタディーズ入門(11))
それを踏まえて言えばこうなる。男とは、ヒトを自認するより先に、つねにすでに、男であると自己規定しているもののことを指す。女とは、ヒトを自認するより先に、つねにすでに、女であると自己規定しているもののことを指す。男あるいは女とは、人間ではないのである。
一般に、客観的視点と言われるとき、多勢の視点を示している場合が多い。
しかし、そんなものは全体主義の視点であって、客観性ではない。客観的視点というものは、例えば、地球の文化を全く知らない宇宙生物が地球に初めて訪れたときの視点、すなわち全くバイアスのかかっていない視点だ。そういった意味で客観的に、奇抜と言われるこの映画も、今現在の現実の社会の日常の奇抜さと大差ない。どちらも奇抜さの極みだ。
「ペニス人としての心得」によって造り上げられた男や女が成り立たせる現実の日常。そんなものは奇抜で異常に決まっている。
ところで! いぬはペニス人じゃないよー! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: タクシデルミア ある剥製師の遺言
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.delta-g.org/mt/mt-tb.cgi/413























コメントする