恋愛の不可能性とは、欲望の不可能性である
[名前はまだない 004]
「もっともっと」の底なし沼
さて、前回のラストに予告したとおり、今回は『the
L word』のシェーンに注目してみたい。シェーンはこのドラマの登場人物のなかで視聴者の一番人気といえるキャラクターである。ミヤマ的にはなぜ人気が高いのか理解できないのだが、あえて人気分析からやってみよう。
まずはやはり外見でしょう。スレンダーといえば聞こえはいいが、ほとんど病的に細い(目の周りの黒メイクも病的である)。おそらくこの細さがシェーンを中性的と形容させる最たるものと思われる。ジャニーズ所属のタレントが息の長い人気を誇るのは、日本の女子が美少年系を好むからである(好むようにしむけられている、とも言える)。中性系といえばジャニーズ、そしてビジュアル系バンドである。退廃的で陰のあるシェーンはどちらかというと後者の要素が強いかも。
なぜかは知らぬが、美少年やビジュアル系にデブは御法度。ミヤマ的にはコロッコロでツヤッツヤの美少年だってアリだと思うが、ファンたちが内面化しているデブフォビア(もしくは成熟拒否)の反映かもしれない。病的な細さを「美しい」と認識するセンスは謎である。「貧相」とは思わないのだろうか。
もうひとつは、シェーンを演じる俳優キャサリン・メーニッヒのハスキーボイスと抑揚のないしゃべりかたである。これらもシェーンの中性っぽさを強化している。声フェチのミヤマ的にはアウト。特に高い声が好きなわけではないが、トーンの高低を問わず、響きの弱い声にはアガらない。
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さて、お次はキャラ設定について。ここからが本領である。シェーンの陰のあるキャラにはそれなりの背景がある。美容師のアシスタント職に就く以前はセックスワーカーをしていたらしいことが、シーズン1で語られる。そのためか、シェーンは主要メンバー内では1、2を争うシモユルである。誘い誘われ即ベッドへ。しかし、特定の恋人はつくらない主義。
ところが、シーズン2では、映画撮影のメイク仕事で知り合った音響さん(DJ)のカルメンと微妙な仲になる。カルメンはシェーンとのセックスのあとにピロートークを仕掛けるが、シェーンは黙ったまま。『The Planet』の仲間たちとは会話を楽しむのに、ワンナイトスタンドの相手とは語る言葉を持ち合わせていない。シェーンは肉体関係よりも友人関係を築くほうがハードルが高いようにみえる。
しかし、シェーンは基本的に感情労働がとても上手なキャラだ。親しい友人たちとの交流を大切にするし、落ち込んでいるらしい友人にさりげなくねぎらいの言葉をかけたりもする。映画のメイク仕事からプロデューサーの付き人に抜擢されたのも、撮影中にヘソを曲げた気分屋の若い女優のご機嫌を上手に回復したからだった。その現場に居合わせたプロデューサーのヴェロニカは、それがシェーンの特別な才能だと見切るが、当人はまったく自覚がなく、むしろそんな才能を期待されることにプレッシャーを感じる。
プライベートでカルメンに求められたものと、仕事でヴェロニカに求められたものがタイミングよくリンクして、シェーンは人知れず悩み、教会の懺悔室で、「もっともっとと求められても、自分には他人に与えるものがなにもない」と司祭に告白する。これは果たして、獲物を追いかけているうちが花で、相手から求められるとヒく、というブッチの特性なのだろうか。
相手に期待させて、焦らして夢中にさせるという駆け引きを、シェーンはしない。求められればすぐさま応じ、自分を与えてしまう。自分はこれですべてなのだと開示する。それはある意味、潔いとミヤマは思う。ジェニーのルームメイト募集に即応じたが、「ルームメイトとは寝ない」と表明しているあたり、ただのシモユルではない。身近なレズビアンたちのチャート(相関図)を作成するアリスは、以前ベットと期間限定の恋人関係だったり、友人だったディナと恋に落ちたりと、友情と愛情の境界がわりとあいまいだが、一方、ワンナイトが盛んなシェーンは友人たちとは決して寝ない。
もしかしてシェーンって、自己評価がめちゃくちゃ低くないか? と思う。感情労働が上手とはいえ、決して相手のパーソナルスペースには踏み込まないし、友人たちの悩みやトラブルにはサポーティブだが、自分の悩みは決して友人たちには打ち明けない。秘密主義というよりは、相手に余計な負担をかけてはいけないという過度の遠慮なのではなかろうか。そこのところを知ってか、友人たちは決してシェーンに立ち入ったことは言わない。友人たちからも「もっともっと」と求められたら、シェーンはコミュニティから離れていくのではないだろうか。
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さて、話は堂々と脇道にそれる(ように見えて、じつはそれないのだが)。このところ話題になっている松井冬子@ETV特集を、先日ようやく観た。松井冬子は2007年に東京芸術大学大学院博士課程を修了し、日本画専攻で女性初の博士号を取得した。以下、YouTubeより(全6回。つづきは各自でたどってください)。
どうでもいいことだが、松井冬子ってマリーナに似てる。バタ臭い顔の日本画家である。
痛みが美に変わる時 ~画家・松井冬子の世界~ (1of6)
番組内で松井は上野千鶴子と対談している。上野は松井の作風を「自傷系アート」と呼びつつバロックパールに例え、バロックパールの歪みに美を感じるオーディエンスたちは、松井に「もっともっと、もっと見せて」とせがむだろう、と語る。ここでも、もっと、である。
「人間の欲望とは、他者の欲望である」とラカンは言った。人間の欲望は自己の内部で自然発生するものではなく、外部(他者の欲望)刺激によって生じる(欲望させられる)。この理論にならえば、松井の作品こそがオーディエンスの欠如にはたらきかけ、「自分はこれまでずっとこのような作品を求めていたのだ」と遡及的に欲望を自覚させるということだ。「もっともっと」の源泉は松井自身なのである。
そのことを松井本人が認識しているかどうかはわからないが、上野の懸念はおそらく、松井がオーディエンスの「もっともっと」に応えようとして、作品をつくるために自傷(作品のネタとして自己犠牲を払うこと)を目的化するのではないか、というところにある。
松井に投げかけられたこの問いこそ、シェーンが直面している問題である。彼女とベッドをともにした女たちは「もっともっと」とシェーンを求めるが、彼女たちの欠如=欲望を満たすものを自分は持ち合わせていないと、シェーンは自覚している。彼女たちの欲望を刺激したのはシェーンという存在だが、彼女たちの欲するシェーンは彼女たちが勝手に描く幻想のシェーン像であり、現実のシェーンとはかけ離れている。
彼女たちの望む幻想のシェーン像を演じれば際限なく自分を譲り渡すことになるし、かといって現実のままのシェーンを見せれば、すでに欲望させられている彼女たちは幻滅することになるかもしれない。遊び人のようでいて、じつはとっても生真面目で、そして自分に自信のないヘタレ正直なシェーンなのであった。
恋愛の不可能性とは、欲望の実現不可能性のことなのだ。と、説明抜きでわけのわからない結論でお茶を濁しつつ、今回はこれまで。
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