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大切なひととはセックスしない(1)

2008年6月16日 10:06 ミヤマアキラ
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大切なひととはセックスしない(1)

 

れ組通信NO.246(4月27日発行)に掲載された原稿をお送りします(編集部の了承を得て掲載しています)。当初は1回読み切りのつもりでしたが、書いているうちに字数が足りなくなり、2回にわたって掲載することに。続編は6月末発行のれ組通信に掲載されます。これを機に、ぜひ定期購読のお申し込みをどうぞ。

ビジネスパートナーでもある友人と同居をはじめて、半年がすぎた。

 

20代のころ、当時の仲良しさんと同居したことがあった。そのひとは外回りの仕事をしていたので、午前中に外出し、打ち合わせと称した接待などに忙しく、帰りはいつも夜中。当時のわたしは午後出勤で帰りは終電ギリギリ、帰宅後も仕事をしていたため寝るのは朝方。仲良しさんとは夕食をともにするのが関の山で、その後相手はベッドに入り、わたしは仕事。相手が起きて出かけるころ、わたしはまだ寝ているのだった。

 

部屋の間取りは2DK1970年代建築のメゾネットタイプで、DK、バス、トイレが1階にあり、各々の部屋は2階にあった。掃除・洗濯は各自分担、相手は料理が不得手だったので、わたしが担当。家賃、固定電話、水道光熱費、食費、雑費は折半で、携帯電話の費用は各自負担。

 

ここまで振り返ってみると、現在の友人との同居スタイルとほとんど違いはない。といっても、現在は家事労働のほとんどをわたしが担っているが、わたしにとってはいまの同居生活のほうがずっと快適だ。それはなぜなのだろう、と考えてみた。

 

当時の同居を踏まえて、自分は「他人と生活をもとにできないタイプ」だと思っていた。そのため、それ以降に仲良くしてきたひとたちと同居したいと思ったことは一度もない。だれにも邪魔されない自分ひとりだけの居場所を確保したうえで、仲良しさんとは外で会ったり、週末だけお互いの家に通ったりと、住み分けをはっきりさせていた。

 

仕事の忙しさは、いまも当時も変わりない。だが、当時のわたしは身体を壊していた。それは仲良しさんとの同居が苦しかったからではないかと自己分析している。

 

その仲良しさんとは、ほとんどケンカをしたことがなかった。表向きは平穏だったが、裏を返せば、衝突するほど共有できる話題がなかった、ということである。なにかの折りに、わたしが関心を持っている事柄について話を振ると、「難しいことは私にはわからないから」とニッコリ微笑んで終了。わたしはそれ以上の追求はせず、ほかの仲間と話し合っていたので不満はなかった。しかし、思い返してみると、当時の仲良しさんがなにを考えていたのか、どういう価値観の持ち主だったのか、そのひとがどういうひとだったのか、さっぱりわからないのであった。

 

当時、わからなくても平気だったのは、言葉による接触の代わりに身体的な接触を持っていたからだと思う。もちろん、両者は目的も内容も異なれば、その成果(効果)も異なる。効果として問題なのは、わたしにとっては後者の場合だ。身体的な接触を持つと、精神的にも人格的にも思考的にもわかりあえていると錯覚しやすい。セックスをしなくても「わかりあう」ことは可能だが、当時のわたしはその方法を知らなかった。そしてわたしはご多分に漏れずこの錯覚に陥り、身体的接触を持った間柄であるというだけで、相手をわかった気になっていたのだと思う。

 

しかし、身体はある意味正直だ。わたしは中学生のころから腰痛とおつき合いしてきたが、仲良しさんと同居していたころに容態が悪化して座骨神経痛を患い、片足を引きずりながら生活していた。仕事が忙しかったせいだと当初は思っていたが、ひとりでゆったりくつろぐ時間もなく、同居人がいったいなにを考えているのかもわからず、わかるような対話にもっていくノウハウもなく、気が休まらなかったのだろうと思う。わたしの腰痛は、とにかく身体が緊張から解かれないと軽減されないものなのだ。

 

同居は、先方の家庭の事情により約1年半で解消し、その約半年後に関係そのものを解消した。一人暮らしを再開してから別れるまで、電話で話すことはあったけれども、実際に会うことはほとんどなかった。その半年のあいだに、神経痛はずいぶん良くなった。

 

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それから約10年の月日が流れ、わたしはくだんの友人との同居を決めたわけだが、なぜか不安はまったくなかった。仲良しさんとの同居すらわたしにとっては成功体験になっていないのに、ビジネスパートナーとしてやっていこうとしている友人と、もしも同居がうまくいかなかったらどうしようかと心配することは、不思議となかった。

 

その友人とは、志を同じくする部分もあるし、相容れない部分も当然ある。しかし、なんにせよ、きちんと話し合いができることと、身体的接触によるごまかしが効かないことは重要である。意見が対立したり、不穏な空気が流れたりする場合はもちろんあるが、身体的接触がないからこそ、冷静にお互いの話に耳を傾けることができるし、ふたりのあいだに起こっている問題も、それを収拾する方法も、話しながらきちんと見えてくる。相手を自分の思い通りにコントロールしようとする意識ははたらかず、自他の区別をきちんとつけたまま、険悪になったり悲観的になったりもせず、ケンカ以前よりもお互いの深い部分に触れ合うことができる(と、わたしは感じている)。

 

もちろん、この10年のあいだに仲良くなったひとたちとも、冷静に話し合おうと意識してきた。だが、どうしてもお互いの話を聴けないのである。話し合いが話し合いとして機能せず、話の要点がどんどんズレていって収拾がつかなくなり、ふたりのあいだの溝がますます大きくなるばかりに思えて不安になり、結局は、その溝を身体的な接触で埋め合わせようとするしかない。そのような交わりは後から思えば不毛でしかないのだが、そのときはそうするほかにすべがなかった。

 

障碍者や高齢者の介護、若年者の養育における課題のひとつとして、介護(あるいは養育)対象者の存在をまるごと受け止めることと、対象者の言い分に耳を傾けることが同時にできない、というものがある。つまり、相手が「もの言わぬ弱者」だからこそ献身的なサポートが可能なのであり、相手が「ものを考え、それを口にする、自分と対等な他者」となると、サポートの対象から逸脱し、憎悪すべき論敵になってしまうことがある。

 

ここには、介護(養育)者のなかに無自覚のパターナリズムが潜んでいることが示唆される。自分のサポート方法について対象者から寄せられるクレームに、冷静に耳を傾けることができない。そこには、「自分は善意でサポートしているのだから、文句を言わずに黙ってサポートを受けるべし」というパターナリズムと、「自分のサポートをまるごと受け止めてもらいたい」という甘えがあるからである。

 

親密な身体的接触を持つ関係にも同じことが指摘できる。いや、むしろ事態はより深刻である。介護や養育には一般的に、親密かつ性的な身体的接触は介在しないが、特に♀♀パートナーシップにおいては、「恋人とはなんでも話し合う」ことが理想とされる傾向が強いからである。「もの言う他者」と身体的接触を持つことは、双方にとってある意味とても危険な行為だとわたしは認識しているが、紙面が尽きてきたので、つづきはまた次回に。

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