それでもボクはやってない 予告篇
『死刑執行人もまた死す』 (1943) という映画がある。
ナチの宣伝映画を撮るよう命令されたフリッツ・ラング監督がその夜のうちにアメリカに亡命し、いくつかの反ナチ映画を製作した。そのうちの一作品。
同じくドイツから亡命したブレヒトとの共同脚本による本作は、ナチ占領下のプラハが舞台。
市民レジスタンスとナチ占領軍の、二転三転する虚々実々の駆け引きが描かれる。ラングのスリラー演出の真骨頂を堪能できる傑作だ。
(ご覧になるかたは、できれば、120分の通常版よりも134分の完全版がお勧めです。レジスタンスの側に関する重要なシーンが復旧され、深みが増しています)
「死刑執行人」の異名を持つナチ高官ハイドリッヒが暗殺され、ナチは暗殺者を捕まえようと躍起になる。プラハ全域に戒厳令を敷き、暗殺者の自首を即すため、強制連行した市民を次々と殺害していく。
心ある市民に匿われた、暗殺犯である町医者フランツは、無関係な市民が殺されていくことに胸を痛めるが、「自首したら抵抗の芽を積むことになる」という励ましを受ける。
一方、レジスタンス地下組織に出入りしているチャカという男は、私欲のためにナチと密通し情報を横流ししていた。
映画では、留置された大勢のプラハ市民が殺害されていくが、死刑執行人ハイドリッヒは、誰にも直接手を下していない。
ハイドリッヒは死んでいるからだ。
では生前は、どうだっただろうか。
同じく、ハイドリッヒは直接には誰も殺してはいないのではないか。
映画のタイトルにもなっている「死刑執行人」。
看板に偽りあり。彼は、死刑を執行する人ではない。
死刑執行人なのに、執行をしない。命令するだけだ。死刑命令人だ。
裏切り者のチャカも、誰も殺してはいない。しかし、大量殺人者ナチへの貢献は、大量殺人への貢献だ。
ナチの大親分、アドルフ・ヒトラーも、ヒトラーが可愛がるホモソーシャル弟分ヨーゼフ・ゲッペルスも、直接死刑執行はしていないだろう。
直接か間接か、そんなことは問題ではない。
命令したことが問題なのだ。
『それでもボクはやってない』では、痴漢をしたと告発された男が冤罪だと訴えるらしい。
予告篇で、主人公の男は、「俺はやってない!」と叫ぶ。
映画の題名は「ボク」なのに、「俺」と叫ぶ。
これまた、看板に偽りあり。嘘つきー。嘘つきー。
でも。先に予告篇で嘘つきですと告白してくれるなんて良心的。
おかげで本編は観ないで済んだ。
あーあ。嘘だらけだ。
映画館を出て、ちょっとお散歩に行きましょう。
ほら、そこらの公園で幼稚園児たちが遊んでいるのを観察してご覧なさい。
自分を「俺」と呼ぶ男の子は、威張っていないか。
周囲の子供らは、彼が威張るのを当たり前に受け入れていないか。
「俺」とは、他者に命令して従わせることが出来る魔法の言葉。
「俺」とは、「俺」と使えない/使わない/使わせてもらえない他者を奴隷化する呪いの言葉。
男が暴力の権利を手に入れるのは簡単だ。自分を「俺」と呼べばいい。
「俺」という言葉は、男という性に、際限のない暴力性を刻印する。
満員電車内で合意のセックスを行うことは痴漢ではない。
同意を得ない強要が痴漢であり、それは、男から女への暴力だ。
男という性に暴力の刻印があってこそ、痴漢行為の欲望は成立する。
男が「俺」という一人称を使うことは、社会的に「男とはこういうものだ」と規定し、規定された男性性によって、痴漢行為の欲望が成立する。
男が「俺」という一人称を使うことは、痴漢男に「痴漢しろ」と命令していることなのだ。
裏切り者チャカが大量殺人者に貢献していると言えるなら、男が男らしく「俺」を使うことは痴漢への貢献だ。
ヒトラーやゲッペルスやハイドリッヒに大量殺人の責任があるなら、「俺」を使う男には痴漢の責任がある。
『それでもボクはやってない』 笑わせるタイトルだ。
それでもオマエは痴漢だ。
痴漢のオマエなんか全然かわいくない。
いぬは圧倒的にかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
【参考URL】
・DVD 死刑執行人もまた死す
・DVD それでもボクはやってないスタンダード・エディション
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面白く読ませていただきました。「俺」を使ってるってことは、その時点で既に「俺」という言葉の力を使おうとしている(まぁ、本人無意識でなんでしょうが・性質の悪い無意識ですだと思いますが)のと同時に、「自分は暴力で他者を支配する『俺仲間』の一人だ」と告白しているようなものと言えるでしょうか。
「痴漢冤罪」に対する多くの男のヒステリックな反応にはイライラさせられますが、この「それでもボクはやってない」という映画はそういう男のヒステリーをなだめるのですかね。(今、「ぼく」を変換しようとしたら最初に僕が出たのですが、カタカナのボクって僕よりさらに「ボク被害者なの~」って雰囲気出せますね。)
それにしてもアマゾンのカスタマーレビューは、読むとぶったおれそうなのがザクザクで・・・世の中そんなものでしょうか。
私は、この映画の中の裁判所や警察の実態が、現実のものとどの程度同じなのか、正確なのか、その辺も気になります。
キリハラ キリさま
コメント有難うございます。
「俺」という一人称を聞くたび、記録映像や映画の中で耳にする「ハイル・ヒトラー」という号令を思い浮かべています。
「俺」は、男の、男同士の仲間意識を確かめる言葉であり、男というものへの忠誠を誓う言葉なんですよね。
男は男だけの視点で、男への共感を推奨された女は「女性ならでは」という男の顔を立てた視点で、物事を見ているのでしょう。
映画で描かれたことが現実に即しているのかどうか、観ていないのでわかりませんが、冤罪を題材するにしても、様々な犯罪の中で、痴漢犯罪を取り上げたことが作為的ですよね。
満員電車での痴漢は、日本特有の犯罪と言われています。
日本では、女が、NOを表明しないことを望ましいとされていることに付け込んだ犯罪なのでしょう。
痴漢犯罪を引き起こす土壌が充分に問題化されていない段階で、痴漢冤罪を大きく採り上げるのは、本当に痴漢犯罪にあったかたが訴えることを躊躇させる効果があるのではないかと懸念します。