ミスト
[いぬのえいがひょう] vol.040
メイン州田舎町に妻ステファニーと5歳の息子ビリーと共に暮らしているデビッド。激しい嵐が過ぎた翌朝、デビッドはビリーとスーパーマーケットへ買い出しに出掛けるが、湖の対岸から発生しはじめた霧が、急速に包み込んでいく。マーケットもすぐに霧に覆われた。
霧の中でモンスターに襲われたと言う者もあり、デビッドも牙のついた巨大な触手を目撃する。霧の中には何か恐ろしいものが潜んでいるらしい。
デビッドたちを信じる者たちはバリケードを作り始める。
一方、信仰心の篤いカーモディは、神の審判に関して聖書の引用をはじめ、人々を苛立たせる。
その夜、霧の中の謎のモンスターたちがマーケットを襲い、店内は混乱をきたす。
神の怒りだというカーモディの説は、はじめは誰も聞く耳をもたなかったが、不安が高まるにつれ、次々に賛同者を増やしてゆく。
デビッドたちは、このままでは人々が扇動され暴徒化し、店内は謎の霧の中以上に、危険な状態になると懸念する。
デビッドたちの予想通り、カーモディはやがて、神への生贄が必要だと人々を扇動するようになっていく。
この映画は、社会問題を深く取り扱っている。
単に、マーケットに立て篭もった人々が、2001年のNY貿易センタービル破壊以降のアメリカ社会の縮図だからというだけではない。
ある集団の政治的責任の主体は、誰でもない集団自体か便宜的な責任者に置かれがちだが、あらゆる選択は各成員が行っている。
『ミスト』 では登場人物たち個々の選択が描かれる。社会問題は、社会の問題ではなく社会の成員の問題だということをしっかり掴んでいる。
人々の心理こそ政治の問題の中心なのだ。
「個人的なことは政治的である」という第二波フェミニズムのスローガンは、まだ足りない。
個人的なこと「こそが」政治的なのである。
政治的な扇動は、蓄積され反復されることで、馴染み深い、社会的に価値を付与された規範に沿って行われがちだ。
『ミスト』のカーモディが利用する社会的価値のひとつは「子供」だ。
霧の中にいるモンスターは、神の意志に背き、生命の摂理を蔑ろにしてきた人類への報いだとカーモディは言う。
生命の摂理に反したものの例のひとつとしてカーモディは人工中絶の例を挙げる。
中絶反対論者は、中絶は子殺しだというレトリックを使い、女性の身体の所有権を女性から奪い取り未来を担う胎児に与えようとする。
成人女性よりも弱者である胎児の意見を尊重することが一見正当に見えるのだろう。
しかしそれは、身体能力に関する強者と弱者のヒエラルキーを、社会的地位に関する強者と弱者のヒエラルキーという別種の権力構造に置き換えているのだ。
肉体として見えている権力分布だけで、共有概念として見えていない権力分布をも判断している。
社会権力の設定は社会権力を手にした者に委ねられ、自在に再設定が可能だ。
常に社会的弱者と設定した者を犠牲にする。
だからこそ、カーモディは、他者が子供をないがしろにすることを責めながら、子供を生贄に捧げ殺そうとする。
例えば、戦争をしたい者たちが、子供たちの未来を守ると言い、戦争がはじまると平気で子供たちを犠牲にするのと同じだ。
用意した解答を押し付けたい者には、社会不安は好都合だ。恐ろしい。
しかし恐ろしい行動を実行するのは、扇動する者ではなく、扇動される者なのだ。
解答を欲し、絶え間無い不安を望んでいるのではないか。
カーモディの賛同者になるのは、ころころ意見を変える虚勢を張ったマッチョ男、フェミニン同一化が板についたナチュラル派を気取った女など。
あまりに類型的だが、社会的な自己肯定は、社会的な類型によって為されるもの。
安易な解説にすがるパーソナリティは、類型的に描かれてこそ現実的なのだろう。
ゲイはオカマに、ビアンはオナベに、トランス・ジェンダーは(tXではなくtMやtFの)性同一性障害を名乗って類型に併せると一般向けに可視化「してもらえ」やすい。
性指向や性自認だけではない、思想、信条、自己を示すあらゆる特徴に、類型化の圧力がかけられる。
類型へ帰属することの、可視化「してもらえ」やすさというご褒美は、社会的承認のされやすさである一方、権力構造への組み込みやすさという罠でもある。
カーモディたちにとっては、デビッドたちもまた霧の中にいるモンスターだったのだ。
知らない相手を、知ろうとしなければ、その相手はモンスターだ。
知りたくないものはすべて異端のカテゴリーに分類しておく。とても簡単な考え方で、賛同者を得やすいだろう。
危険なマーケットからなんとか逃れたデビッドたちは、霧に満ちた世界を体高数10mある巨大なモンスターが闊歩しているのを目撃する。
荘厳なモンスターの姿は、レイ・ブラッドベリ『ウは宇宙船のウ【新版】 (創元SF文庫) (文庫) 』 所収『霧笛』の灯台の灯を浴びた恐竜の詩情溢れる描写を彷彿とさせる。
社会権力による規定を逃れているそのモンスターは、絶望の霧の中で生命の唯一の希望だったのかもしれない。
監督のフランク・ダラボンは、思考を禁じる恐ろしい管理社会を描いた、ブラッドベリの『華氏四五一度 (ハヤカワ文庫 NV 106) (文庫) 』の再映画化を次回作に予定している。
(フランソワ・トリュフォーによって一度映画化されている。『華氏451』(1966))
映画化にあたってどの程度、原作から改変があるかはわからないが、『華氏四五一度』の主人公モンターグもまた社会の管理から逃亡する。
フランク・ダラボンは、『エルム街の悪夢3 惨劇の館 スペシャル・エディション』(1987)、『ザ・フライ2/二世誕生
』(1988)以来、脚本を手掛けた作品では一貫して、閉鎖的な社会から社会的マイノリティ化を強制された者が社会からの逃亡することに希望を託してきた。
マイノリティから希望を奪うことで、マジョリティに幻想の自己肯定感を与え際限なく希望を造りあげる社会権力のやり口は、巧妙、ではなく、単純で、しつこい。
絶望の押し付けと希望の搾取が続く世界で、ダラボン監督は新しい『華氏451』のモンターグたちに希望を引き継がせてくれるだろう。
ところで! そんなことより、いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
【関連サイト】
・原作
スティーヴン・キング『スケルトン・クルー〈1〉骸骨乗組員 (扶桑社ミステリー) (文庫)』 所収『霧』
・関連書籍
レイ・ブラッドベリ『ウは宇宙船のウ【新版】 (創元SF文庫) (文庫) 』 所収『霧笛』
レイ・ブラッドベリ『華氏四五一度 (ハヤカワ文庫 NV 106) (文庫) 』
・関連DVD
『華氏451』
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