大切なひととはセックスしない(2)
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大切なひととはセックスしない(2)
またしてもアップロードが遅れてすみません。れ組通信NO.248(6月29日発行)に掲載された続編の原稿をお送りします(編集部の了承を得て掲載しています)。つい最近脱稿したばかりの原稿ですが、いまのミヤマはすでに、原稿執筆時とは違ったステージに立っているようです。
前回(No.246)の最後に、「特に♀♀パートナーシップにおいては、『恋人とはなんでも話し合う』ことが理想とされる傾向が強いが、『もの言う他者』と身体的接触を持つことは、双方にとってある意味とても危険な行為だとわたしは認識している」と述べた。
かといって「もの言わぬ他者」とだけセックスすればいい、と言いたいわけではないし、「ではミヤマは大切じゃないひととならセックスするのか」と読まれるのも本意ではない。誤読を最小限にするためにはもう少し言葉を費やす必要がある。
「恋人とはなんでも話し合う」ことを理想とするひとは、実際には「なんでも話し合」ったことがないか、「なんでも」と言いながらごく限られた範囲のやりとりで充足しているのではないかと思う。これは批判や皮肉ではない。ある程度までなら共通点や共感できることを発見しあう喜びを味わえるのだから、そのラインをキープできれば健全かつ幸福である。
実際「なんでも」話し合って突き詰めていけば、共通点どころか「違い」のほうが増えていくのは必然である。お互い生まれ育った環境や背景が異なる別個の存在であり、ものごとの捉えかたや感じかたも違えば、同じひとつの言葉でも込める意味合いやそこから得るイメージも違う異文化同士なのだから。
さらに、暮らしをともにすれば、会話どころか生活習慣の違いも明らかになってくる。それでも、お互いのパーソナルスペースを尊重しあって、ある一定以上は踏み込まずに済ませられればよいのだが、そもそもスペースの広さ自体がおのおの異なるので諍いのネタになりかねない。自分はここまで踏み込まれても平気だから相手もきっと同じだろうと思い込んだり、それ以上踏み込めない一線があることに不安や心細さを感じたり。
特に、セックスによって親密なやりとりを重ねた関係では、物理面のみならず精神面のパーソナルスペースへの侵害が起こりやすい。相手と自分を同一視するあまり、相手と健全な距離の保ちかたがわからなくなり、1+1=1になるような息苦しい関係を築きたがる。これは執着心と独占欲のなせる業であり、不安と自信のなさのあらわれである。だから、根気よくお互いを知り合っていこうとするのではなく、焦燥感に駆られて性急に激しく相手にしがみつく。
そして、相手を自分につなぎとめておく手段としてセックスを用いる。その一例は、パートナーに対して自分以外の他者との性交渉を過度に禁じること。もちろん、当人同士は無自覚だろうが、モノガマス関係の維持をパートナーシップの前提とすることは、ほかでもないセックスがお互いの関係のかけがえのなさを担保しているという証左である。セックスフレンドを「セックスだけの関係」と忌み嫌うひとこそ、なんだかんだ言ってセックスを最重視し、セックスをコントロールすることでパートナーとのつながりを維持しようとする、とわたしは見ている。
二つめの例は、ケンカの仲直りのためにセックスをすることである。見解の不一致、すれ違い、不信などについて話し合いをすればするほど、お互いがかけ離れていくような気がして、相手を失う不安から逃れたい一心で肉体を求める。不安と緊張が極度に高まった後のセックスは、リセットやカタストロフの機能を持たされる点で暴力とさして変わりない。事の最中は思考を停止して不安を忘れていられるし、お互いのあいだに横たわる空白やズレをセックスで埋め合わせられると錯覚したり、セックスでトラブルが解決されたと思い込む。ところが、いずれまたカップル間で衝突が起こり、高まる不安と緊張に耐えられなくなって、再びセックスでその場の空気を切り替えようとする……まるで暴力のサイクルそのものである。
話せば話すほどお互いを傷つけあうばかりのときには、よく「言葉がすべてじゃない」などといわれるが、言葉を使うことが誤りなのではなくて、言葉の運用に誤りがあるにもかかわらず、モード転換を目的としたセックス運用を正当化するために、このような詭弁が用いられる。
この二例からわかるように、セックスを支配の手段とするのは、なにも家父長男の専売特許ではない。特に非家父長的支配は一見、相手への「しがみつき」の形をとるので、じつにわかりにくく巧妙である。しがみつく当人は自分を弱者と認識しているため、その手をふりほどく側が強者扱いされるなどして、とても厄介である。
異文化同士はセックスで乗り越えられるほど単純ではない。「話せばわかり合える」は程度の問題にすぎない。とことん突き詰めていけば必然的に決裂する。それでも執着心と独占欲はどんどんお互いのパーソナルスペースを侵害していく。心身ともに親密な間柄であれば、お互いの繊細な部分、欠点や弱みを知って当然だが、関係がこじれると逆にその点を攻撃しあうことになる。信頼しているからこそ打ち明けた心の痛みにつけこんだり、その痛みを増幅させるような言動をはたらいて致命的なダメージを与えることもありうる。
カップルが健全な関係を維持するコツは「突き詰めあわないこと」だが、「好きだからこそ相手のことが気になる」のはごく当たり前のことだし、わたしは独占欲や執着心を否定する気はなく、それらを捨て去れと呼びかける気もない。しかし、独占欲による突き詰めや執着心によるしがみつきは、相手にとっては「求愛」と「攻撃」のダブルミーニングにほかならず、愛されているのか憎まれているのかわからなくなって混乱する。そのことを忘れてはいけない。
一心同体のパートナーシップとは、結局のところ性的ファンタジー(妄想)である。人間の活動のなかではセックスがもっとも社会通念(規範)という手あかにまみれていて、保守的である。要するに、人間の営みにおいてセックスほどつまらないものはない。「個人的なことは政治的なこと」というフレーズが人口に膾炙したのは、そもそも社会規範が個々人のなかに深く根を下ろしており、個人はつねに規範を引用反復しているからである。フタを開けてみれば個々のセックスライフは似たり寄ったりの金太郎飴だということだ。ベッドのなかにまで陳腐な社会通念を持ち込んで類型的かつ退屈なセックスライフを送るくらいなら、わたしはひとりで床に寝る。
「セックスできれいになる!」「セックスでストレス解消!」などと、女性誌で特集されるようになって久しいが、わたしに言わせればセックスこそが最大のストレス源である。某官能系タレントが、パートナーとの性生活について、「セックスをしなくてもわかること」「セックスしてわかること」「セックスしてもわからないこと」の3つがあると語っていたが、「セックスしてわかること」など、質的にも量的にもさほど重要な情報ではない。それを知るためにわざわざストレス漬けになるのはまっぴらご免である。大切なひととは心穏やかにすごしたい。だからわたしは「大切なひととはセックスしない」のである。
<おわり>
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ミヤマさんのご意見、レズビアンだけのことではなくどんな組み合わせのカップルにも言えますね。深いです。
ぴかりこさま
コメントありがとうございます。
レズビアンだけでなくどんなカップルにも当てはまる、というご感想は、とてもありがたいです。
そもそも性暴力は男女間でしか起こらない(非異性との関係がはじめから想定外)とか、同性同士なら対等で暴力など起こらないなどの言説への反論の必要を感じて、デルタVプロジェクトおよび本原稿をすすめてきました。
それをすぐさま「どのカップルにも当てはまる」と一般論に還元してしまうのは(結果的にはそうあってほしいのですが)、ちょっと待ってくださいね、と思います。
ヘテロの言説はノン・ヘテロを疎外してきたのに、ノン・ヘテロが対抗的に編みあげた知恵や思索は簡単にヘテロのものにされてしまうことに、わたしはいつも悔しさを感じます。ケチなことを言うようですが
いないことにされたり、別物扱いされてきたためにアクセスできる情報が制限されてきたので、自身で苦心しながら情報を生み出さざるを得ないのです。それを「レズビアンだけでなく、どんなカップルにも当てはまる」と言われると、笑顔で楽々と巻き上げられているような気持ちになります。
ぴかりこさんを責めているのではありませんので、誤解なさらないでください。
男女二元論に基づく恋愛論、性愛論、性暴力言説は、汎用性が低くて使えないものが多いなあ、という嘆きです。
こちらでは初めまして。ミヤマさんのコラムを楽しみにしています。こちらの記事もとても面白く読ませていただきました。
その上で、ミヤマさんのコメントへ、コメントさせていただきます。
私はヘテロのアイデンティティを持って、性暴力の問題を考えてきました。しかし、そのときに、旧来のヘテロが作ってきた性暴力の言説に賛同できない点も多く、独自の考えを進めてきたつもりです。その中で、ここ数年、たとえばマツウラマムコさんの論文「『二次被害』は終わらない」に共感したり、違和感を抱いたりしながら、提示された論点を検討してきました。マツウラさんはノン・ヘテロのサバイバーとしての発言もなさっています。しかし、私個人はマツウラさんの論文を検討するときに、旧来のヘテロの言説から、ノン・ヘテロの言説に乗り換えたつもりはありません。
ヘテロの言説が、ノン・ヘテロの言説を疎外してきた歴史は、私なりに見たり聞いたりしてきました。しかし、そこでヘテロが一枚岩であったわけでもないし、ノン・ヘテロの全ての人がヘテロの性暴力の言説に対抗的だったわけでもない、という認識が私にはあります。
そして、ヘテロが情報に簡単にアクセスできる、という前提にも賛同できません。とてもそう楽観視できる状況にはないと思っています。もしかすると、ヘテロにとって性暴力の情報は、10年前よりはずっとアクセスしやすくなっているかもしれません。しかし、だからといって、苦心せずに情報を生み出せるわけではありません。ヘテロであるだけで、生み出した情報が、まるで楽々と笑顔で巻き上げたように表現されるのは心外です。ヘテロ内で、ヘテロの言説に対抗しようとしてきた者としては、そのように表現されると、とてもガックリきます。
ミヤマさんのご指摘はもっともで、重要な問題だと感じながらも、性暴力の問題を、ヘテロとのノン・ヘテロの対立軸のみを強調するような論じ方には賛同できないと思い、一言発言させていただきました。
もちろん、ヘテロの多くの言説に、ミヤマさんのおっしゃるような一撃が必要なこともわかっているのですが……もう少し丁寧に議論を積み上げていければいいなあ、と思っています。
私もこのコラムをレズビアンカップルについての話、という意識をあまり持たずに読んでいました。「特に♀♀パートナーシップにおいては」「非家父長的支配」等の表現に当たったときは、ヘテロカップルではなくレズビアンカップルについて書いてあるのだと意識するのですが、すぐに忘れてしまうと言うか・・・。ここでミヤマさんが書いていることはヘテロカップルにも当てはめられる、かなり普遍的なことだと思います。
でも、
>それをすぐさま「どのカップルにも当てはまる」と一般論に還元してしまうのは(結果的にはそうあってほしいのですが)、ちょっと待ってくださいね、と思います。
>ヘテロの言説はノン・ヘテロを疎外してきたのに、ノン・ヘテロが対抗的に編みあげた知恵や思索は簡単にヘテロのものにされてしまうことに、わたしはいつも悔しさを感じます。
というのを読んで、そうか、そうなのか、言われてみれば確かにそりゃ悔しいだろう、と気付かされました。自分も多数派であるが故に、深く考えもせずノン・ヘテロの言説をニコニコと巻き上げていたのかも・・・。今後自戒しますわ。
恋愛規範と結び付けられたセックスについての話ですね。
面白く読ませていただきました。
セックスを、お互いの差異による距離を埋めるためのものという考え。
それは、誰しも共通の社会通念(規範)を信じきっていて、その確認のためという面もあるのではないでしょうか。
色々違いはあるけれど、セックスすれば一緒のものを信じていることがわかりあえる、といった発想。
特にヘテロの場合は、ペニスをヴァジャイナに乱暴に押し込むセックスがセックスと思い込んでいる男が言うことが多そうですね。
そんな家父長制類型セックスで、自分が男であること相手が女であることを再生産して、自分たちが社会通念(規範)に一致していることを確認する。
そうして権威の承認を得て安心するのではないでしょうか。
そしてまた、レズビアン間のつなぎとめもまた、私には家父長制の影響下のものに思えます。
セックスという行為に対する意味付けが、固定化してしまっている。
もしかしたら、セックスの内実はともかく、セックスの意味付けに関しては、ゲイ男の置かれた立場が、選択の多様性が開かれているのかもしれませんね。
それが、ヘテロ男のミソジニーが移植されたために形成された多様性であったとしても。
>ノン・ヘテロが対抗的に編みあげた知恵や思索は簡単にヘテロのものにされてしまう
私は、ヘテロのものにされること自体にではなく、核心部分が切り捨てられて表面的な形式だけを利用されてしまうことに苛立ちますね。
わー、こんなにコメントがつづいていたとは。
font-daさま
初コメントありがとうございます。
確かにヘテロとて一枚岩ではなく、ヘテロ言説に疑問や不満を抱くかたがいらっしゃるのは当然でしょうし、そういう声を具体的に寄せていただくと、ちょっと、いや、かなり、ほっとします。
font-daさまのご発言、しかと胸に刻んでおきます。
上記のわたしのコメントは、出先から携帯で打ち込んだものでして、font-daさまがおっしゃるとおり、丁寧さに欠けていました。ご指摘ありがとうございます、
そのうえで。
>ノン・ヘテロの全ての人がヘテロの性暴力の言説に対抗的だったわけでもない
もちろん、そうだと思います。しかし、少なくともわたし個人は対抗的にならざるをえません、ということを、上記のコメントで述べました。
>ヘテロが情報に簡単にアクセスできる、という前提
わたしはそのような前提は提示しておりません。ヘテロですらアクセスが困難な情報が、ノン・ヘテロはさらにそのアクセスが制限されてしまう、ということです。
わたしが言いたかったのは、「レズビアンだけでなく、どんなカップルにもあてはまる」と相対化されることで、ほかならぬレズビアンおよびその他のノン・ヘテロ・カップル内でまさしくそれが起こっているのだということが、薄められ、再び見えなくされてしまうのではないか、という懸念です。
また、わたしはヘテロvsノン・ヘテロという対立軸を立てるつもりはありません。両者の抱える課題には、確かに大きな共通点がありますが、現象のあらわれかたの微妙な違いを考慮することなく、共通点でくくられてしまうことには、やはり抵抗を感じるのです。
また、ここに述べた懸念の出所につきましては、もう少し論を整理してオープン・リソースとしたほうがよいと思いますので、次回のコラムにて展開したいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
キリハラさま
毎度お世話さまでございます。
>ヘテロカップルではなくレズビアンカップルについて書いてあるのだと意識するのですが、すぐに忘れてしまうと言うか・・・。ここでミヤマさんが書いていることはヘテロカップルにも当てはめられる、かなり普遍的なことだと思います。
自分でも矛盾してるよな〜とは思うのですが、わたしはレズビアンはじめマイノリティだけに向けて発信しているわけではなく、やはりマジョリティを巻き込んでいきたいという思いがあります。「特殊を極めて普遍にいたる」を目指しております。
valerieさま
コメントありがとうございます。
>レズビアン間のつなぎとめもまた、私には家父長制の影響下のものに思えます。
確かにそうですね。ノン・ヘテロといえども、ヘテロ同様に家父長制社会文化を生きてしまっているので、家父長制の影響をまったく受けずにいられるわけではありません。ただ、ノン・ヘテロのなかでも、性(別)差別と(同)性愛差別という二重の弱者性をもつレズビアン・カップルは、比較的わかりやすく固定化した権力構造を背景とするヘテロ・カップルよりも、権力の布置が微妙に行き来することがあるようです。
>核心部分が切り捨てられて表面的な形式だけを利用されてしまう
丁寧にプロセスをつまびらかにしたつもりでも、そのプロセスをすっ飛ばして、手っ取り早く結論に至りたい受け手には、なかなか届きませんね。力不足を痛感します。
>ミヤマさま
丁寧なレスポンスありがとうございました。よく理解できました。オープンソース化を楽しみにしています。
ミヤマさんや皆さんの書き込みを読んで色々考えることができました。
>それをすぐさま「どのカップルにも当てはまる」と一般論に還元してしまうのは(結果的にはそうあってほしいのですが)、ちょっと待ってくださいね、と思います。
そうかあ、私の不用意な感想はヘテロの無神経さの表れだったんだな…と思いました。これは言い訳ではないのですが、前々から漠然とヘテロの私自身が体験的に感じていたことが、ミヤマさんの論文にかなりぴったり当てはまるなと感じたのでした。
ミヤマさんはレズビアンとセックスの問題を論じているのだけれど、女とセックスの問題ともかぶるのではないかと実感したのでした。また、最近トランスの方の相方(マジョリティの女性)が彼とのセックスについて言っていたことにも結構当てはまるなと感じたり。
丁寧に発言しさえすれば中身が正しくなるわけではありませんが、ワンフレーズ・コメントは乱暴で失礼でした。ごめんなさい。
>ヘテロの言説はノン・ヘテロを疎外してきたのに、ノン・ヘテロが対抗的に編みあげた知恵や思索は簡単にヘテロのものにされてしまうことに、わたしはいつも悔しさを感じます。ケチなことを言うようですが
>いないことにされたり、別物扱いされてきたためにアクセスできる情報が制限されてきたので、自身で苦心しながら情報を生み出さざるを得ないのです。それを「レズビアンだけでなく、どんなカップルにも当てはまる」と言われると、笑顔で楽々と巻き上げられているような気持ちになります。
ミヤマさんが苦心して構築した理論を、ヘテロの私が安易に巻き上げようとしているつもりはありませんでしたが、そう言われることの背景は想像できます(理解したというのは適切ではないので、想像という言葉でお許しください)。かつて、セクシャル・マイノリティの友人から次のような話を聞かされたことがあったからです。論点がずれていたらごめんなさい。
≪フェミニズム運動が急速に盛り上がりを見せた時代のこと。ヘテロ中心だったフェミニズム運動はレズビアン女性達の運動をも取り込んでいこうとした。女性という共通の立場で、異なる部分を理解し合いながら運動を進めること自体は間違ってはいないだろう。ただ、ヘテロは運動を盛り上げる必要がある時には先鋭的であったレズビアンを利用し、ある時点からはレズビアンは我々とは違うと切り捨てていった。≫
どのような運動でどのようなことが起こったのか、実際の詳しいことは聞けなかったので中途半端な伝聞に過ぎません。できればフェミニズムの歴史を詳しく検証できればと思っています。でも、いかにもありそうなことだなと思います。
アクティブな運動面での利用も、苦労して構築した理論の巻き上げも、似たようなものかもしれません。正直言って、常にそうであってはならないと自戒した次第です。
それと全然違う低レベルなことを申し上げて恐縮ですが、ミヤマさんは凄く威勢がいい方で同時にとても優しい方なんですね。『ぴかりこさんを責めているのではありませんので、誤解なさらないでください。』なんて、気を遣うことありませんよ。率直な批判は互いを近づけるためのものなのですから。次の文章にも期待しています。
ぴかりこさま
>前々から漠然とヘテロの私自身が体験的に感じていたことが、ミヤマさんの論文にかなりぴったり当てはまるなと感じた
>ミヤマさんはレズビアンとセックスの問題を論じているのだけれど、女とセックスの問題ともかぶるのではないかと実感した
おお、そのあたり、もう少し詳しく具体的にうかがうわけにはいかないでしょうか?
ぴかりこさんが引用された、フェミニズムとレズビアンの運動の歴史のお話は、わたしも聞いたことがありますし、レズビアンのアーティスト作品を、作者のセクシュアリティに触れないままフェミ系イベントで使用(紹介)したとして、とても憤慨しているひとが身近にいました。
作品の優劣(善し悪し)と作者のバックグラウンドは関係ない、などと言われることがありますね。確かに、すべてのセクバラが優れた作品を生み出すわけではないけれども、作者のポジショナリティやアイデンティティが作品(の示唆するもの)とまったく無縁であるとは言えません。
それはともかく、ぴかりこさんの最初のコメントをあまりに多用してしまったので、もしかしてぴかりこさんを不穏な気持ちにさせてしまっただろうかと懸念しておりましたが、こうしてご丁寧なレスをいただけてありがたいです。
今後もゆるりと見守ってやってください。