愛のジハード
[いぬのえいがひょう] vol.041
愛のジハード (2007) A Jihad for Love
(東京国際レズビアン&ゲイ映画祭2008にて上映)
6年の歳月をかけて、世界各地の敬虔なイスラム教徒のレズビアンとゲイの姿を追った貴重なドキュメンタリー。
イスラム教と一口に言っても、地域によって同性愛者に対する扱いはさまざま。
同性愛者は鞭に打たれ殺される地域から国外逃亡し難民申請し不安な日々を送るかた。
カムアウトしたことで辞職するように圧力を受けるゲイの聖職者。
神秘主義イスラム教の地域では逆に、同性との愛に生きた敬謙なイスラム教徒が、広く尊敬を受けているほど。
映画にはその他、ゲイのムスリムペンギンも登場する。
この映画は基本的に、「(ペンギン以外の)イスラム教徒の同性愛者は大変な状況に置かれている。でも懸命に生きている」が基調。
これを観た非当事者は「かわいそう。大変だね。頑張ってね」だけで終わりそうな気はする。
とりあえず、そんな同情でもいいのだろう。何らかの共感を得て少しずつでも偏見を緩和することが出来たらいいのだろう。
この映画は、非当事者に対して以上に、当事者に訴えるところが大きい映画に思えた。
映画に出てきたかたがたは、アラーの教え(を、ヘテロ男聖職者が強引に変換した、女性蔑視と異性愛中心主義の強制)と同性愛の葛藤に悩みながら、コーランは人間を愛することをすべて肯定しているのだという答えを見出だしていく。
同じように悩む同性愛者のイスラム教徒は自己救済のヒントを見出だすだろう。
これは、まさにそこに存在する特定の同性愛を救済する軌跡の映画だ。
タイトルにある「ジハード」は「聖戦」の意味で捉らえられがちだが、本来は神へ近づくための葛藤を意味する。
偏見に囲まれて生きる特定の同性愛者にとって、未来への希望となり得る輝きを持っている。
しかしその素晴らしさと同時に、特定の同性愛を救済する軌跡は、特定の同性愛を救済する軌跡でしかない。
映画の中では、人を愛することはすべて神の意思に従っているという理由で、同性への恋愛を肯定している。
「人を愛する」を、性愛に変換して、同性愛を肯定している。
この言い分は、同性愛を救うものの、性愛を持たないAセクシュアルのかたの自我を踏みにじっているのではないか。
カムアウトしたゲイ聖職者のかたは、同性愛を理解「してもらう」ための話し合いに赴く。
その話し合いの場では「ゲイが罪なのではなくアナル・セックスが罪だ。ゲイにはアナル・セックス以外にセックスの方法がない。なので、セックスをするゲイは罪人だ」という意見が出された。
ペニスの挿入しか想定していない男中心の貧しい異性愛セックス観をそのまま同性愛セックスに援用している。
ゲイのムスリムのかたも、それを貧しいセックス観だと感じたのだろう、彼はこう答える。
「ゲイだからといってみんなアナル・セックスをするわけではない」
全く間違ってはいない事実だ。
しかし、こんな返答でいいのか。
アナル・セックスをしないゲイへの偏見を解きながら、アナル・セックスをするゲイへの偏見をゲイ自身が暗黙に強化してしまう。
以前、ゲイのプロテスタント牧師から「同性愛は罪ではない。同性間セックスが罪なのだ」と聞いたことがある。
どちらも、論旨の都合がつけやすいからそう言っているのであって、アナル・セックスあるいは同性間セックスするゲイを差別することに賛成しているのではないだろう。
しかし、真意がどうあれ、都合が悪いからと同性愛者をふたつに分けて片方を切り捨てていることには変わりない。
差別解消のための話をしているのに、細分化した差別を残し、その残った差別を利用してしまう。
この映画の監督はイスラム教徒の同性愛者、製作者はユダヤ教徒の同性愛者。
宗教の違いを越えて協力しあった彼等にはそんな矛盾は百も承知なのだろう。
そんな分が悪い部分があってもなお、ありのままを、そのままに伝えようと、そのままに愛そうとしているのかもしれない。
イスラム教のメッカに入れる女は、男と結婚した女だけ。
映画の中で、それを嘆いていたのはやはり、残念なことにやはり、レズビアンのかただった。
メッカの独身女性禁制が、ゲイ弾圧が同じ根を持っていても、ゲイのイスラム教徒にはそこは特に気にならない点のだろうか。
イスラム教での同性愛否定の根拠として真っ先に挙げられるのは、ソドムとゴモラでの、男が男をレイプした罪にアラーが怒り罰を与えた記述。
ゲイの聖職者のかたは、該当部分について、罪であるのは男と男の性行為という点ではなくレイプである点だと言う。
全くもってその通りだと思う。
更に、ヘテロ男聖職者が男と男の性行為の部分を罪と強調するのは、同性愛弾圧のためだけではなく、男の女へのレイプを不問にするためではないかと勘繰ってしまう。
同性愛を弾圧するヘテロ男教徒の宗教解釈は、ほんとうにいいかげんだ。
・同性愛者は罪人だ。
・罪を公にする罪人は死刑に処すべきだ。
・だから、同性愛者は皆、死刑に処すべきだ。
ふたつの前提の是非はともかく、この論法にはとりあえず矛盾はない。
しかし、同じ聖典において、そもそも人間は、罪を犯したために楽園を追われ、原罪を抱えた存在だったはずだ。
そうであるならば
・人間は罪人だ。
・罪を公にする罪人は死刑に処すべきだ。
・だから、人間は皆、死刑に処すべきだ。
何故こうはならないのだろう。
イスラム教で、同性愛者が皆死刑なら、人間は皆死刑のはず。
ご都合主義の自己保身は、たいがいにしてほしいものだ。
ところで! そんなことより、いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 愛のジハード
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.delta-g.org/mt/mt-tb.cgi/514























こんにちは、いつも愛読しています。
ひとつだけコメントですが、原罪というのはキリスト教に特有の考え方であって、イスラム教にはそういう教義はないので、ご都合主義という批判は筋違いではないでしょうか。イスラム教徒が実際に何を信仰しているのか理解せずに、かれらの宗教解釈が「いいかげん」であると決めつけるのは避けた方が良いと思います。
macskaさん
コメント有り難うございます。
確かに、原罪という概念は、キリスト教が該当箇所をピックアップしたことで有名になったのでしょうが、楽園追放のオリジナルの記述は、コーランにあります。
イスラム教徒が何を信仰しているか。それは、イスラム教徒の現在のマジョリティがコーランから何を読み取っているか、ということ。現在の流行の解釈にすぎません。
神の言葉から、同性愛否定を読み取るのなら、原罪も読み取ってもいいでしょう。
同性愛否定は読み取り、原罪は読み取らないのなら、それは、その時代の権威、神の権威ではなく現世の人の権威を参照して解釈を決めているのでしょう。
絶対的な権力は神のみにあるというのに、神の言葉を取捨選択をする権力は社会規範という偶像に与えられている。
教義(たかが時代の流行)も、信仰(たかが時代の流行)も偶像であって、ただ、神の言葉が重要なのではないでしょうか。
私はイスラム教ではないのですが、キリスト教に関心を持っていて、いろいろ本を読んだりしているのですが、やっぱりつくづく
>絶対的な権力は神のみにあるというのに、神の言葉を取捨選択をする権力は社会規範という偶像に与えられている。
コレを感じます。例えば、カトリック教会が言っていることについて「イエス・キリストなら絶対にそんなこと言わなかったはずだ!」と思ったりするのです・・・。
原理主義(原点主義・原典主義)というのがありますが、これも原理主義者の解釈した原理を信じるから結局は同じこと・・・と言うか、過激な行動に走って周囲に大きな迷惑を与えたりして既存の教団よりはるかに困る存在だったりもするわけで。
人間は、実は宗教を持つにはまだまだ未熟過ぎるのかもしれないと考えたりしています。