マイ・ブルーベリー・ナイツ
[いぬのえいがひょう] vol.043
マイ・ブルーベリー・ナイツ (2007)
My Blueberry Nights
男に捨てられた女。
マスターはちょっと気のきいたふうの都会的な言葉を繰る。
ブルーベリー・パイは美味しいのに、何故かいつも売れ残る。
ブルーベリー・パイが悪いわけじゃない。
カフェの片隅にある瓶の中には人々が恋人に渡すために託した鍵がたまってゆく。
女は、その後、2人の女に出会う。
1人目は、アル中夫を捨てた女。夫は女が新しい男を見つけたことに激怒。夫は都合良く事故死。彼女は都合良く嘆く。
その顛末のあいだ、やっぱりみんな、ちょっと気のきいたふうの都会的な言葉を繰る。
お洒落な大人の自己陶酔。
2人目は、ポーカーに狂う女。彼女は、ギャンブラーの父親に反抗して家を飛び出したまま。父親に関して「死んだって関係ない」と言いながら、気にかけているのがバレバレ。父親は都合良く病死。彼女は都合良く嘆く。
その顛末のあいだ、やっぱりみんな、ちょっと気のきいたふうの都会的な言葉を繰る。
お洒落な大人の自己陶酔。
自分のほんの少し客観視した気分にさせる、自分自身の位置のほんの少し上から見渡した言葉。
洒落ていてわかった気にさせる、中身のない言葉。
自分自身は、地に足が着いたまま。つまり、自分の視点しかない。客観的であろうという意志がない。
お洒落な大人の自己陶酔。
男や女から「あなたは女です」と言われるままに女であり、人から「あなたは人です」と言われるままに人である、女の人でしかない、女の人。
決して、俯瞰からの分析的な視点を持とうはしない。
そんな観客からは、「等身大の私」と見られるであろうヒロイン。
お洒落な大人の自己陶酔。
この映画には、人以外の動物が一切登場しない。
なんて卑小な視点しか持ち得ない、人としての、人のお洒落。
そして、その視点しか持たないことこそが、一般的な「恋愛」というものの秘訣。
お洒落な大人の自己陶酔。
お洒落な大人の自己陶酔映画だけれど、ノラ・ジョーンズの歌声と、ジュード・ロウ(カフェのマスター)とナタリー・ポートマン(ポーカー娘)の演技が、皮膚の体温を感じさせてくれるので、まあ、観られるものにはなっている。
一般に恋愛と語られる恋愛は、中身はからっぽ。
お洒落な大人の自己陶酔。
別なダイジェストの仕方で言うなら。
女の、失恋旅行。傷心旅行で等身大の自分探す物語。
「いろんな人がいるんだなあ」と感じることで癒されて、また恋をする元気をもらう。
この「いろんな人がいるんだなあ」は、旅行前から思考内にプリセットされているフレーズ。
この「等身大の自分」は、探す前から、どういう自分かは既に決まっている。
いろんな人が、ほんとうに見えているのかなあ。
目に入るのは、「等身大の自分」と並んでくれる、普通の人々だけ。
普通じゃないものは、例外扱いで、見ても目に止まらない。
売れ残りのブルーベリー・パイはなんとなくお洒落で。
カクテルを飲んでカウンターで眠るのは、なんとなくお洒落で。
うとうとしているときに、お洒落なジュード・ロウに上手なキスをされたら、気持ちよくて。
お洒落な人はなんとなく普通の人で。
大人の人はなんとなく普通の人で。
大人はなんとなく大人で。
そうして人はなんとなく恋をしたり悩んだりして自分を受け入れて。
お洒落な受け皿の形ははじめから決まっていて。
男がずっと男で。女はずっと女で。
なんとなく、なんとなく、自分を定義していく。
人種は数少ないけれど、犬種は多い。
この映画には、全く犬が出てこない。
けれど、だから、そんなことより、いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
・公式サイト「マイ・ブルーベリー・ナイツ」
・DVD『マイ・ブルーベリー・ナイツ』 (2008/09/12発売)
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