帰らない日々
[いぬのえいがひょう] vol.044
帰らない日々 (2007) Reservation Road
弁護士ドワイトは、離婚した元妻ルースと暮らす中学生の息子ルーカスと、週一回の面会を許可されている。
ドワイトとルーカスは、野球ファンだ。面会のたびに、野球の話で熱く盛り上がる。お気に入りはレッドソックスという球団。
ルースは、ルーカスに、野球を観るのをやめなさいと教育する。
ルースとドワイトが何故離婚に至ったのか、映画の中では、何度も示唆されている。
ドワイトとルーカスのシーンのはじまりは、とにかく野球中継の大写し。
野球場での興奮した応援。川辺で石投げをしていても、野球の真似として語り合う。
ドワイトは野球観戦を通してしか家族との接点がない。ルーカス以外の家族との接点がない。
離婚に至ったのは、ドワイトが熱狂的な野球ファンだからだ。
ここで、野球を知らないかたのために、それがどういうものなのか解説しておこう。
野球とは、バットという陰茎とボールという睾丸とグローブという肛門を使って、男同士の絆を深めあう風習である。
女性嫌悪と同性愛嫌悪を身につけていることが参加するための絶対条件とされる。
陰茎、睾丸、肛門の愛好と、同性愛嫌悪が結びつくのは不可解だと思うだろう。
実は、ここでいう同性愛とは、極めて限定的なものを指すのだ。
野球のメンバー間では男性間の肉体的接触が頻繁に行われる。
それを同性愛と呼ばないだけだ。
自分たちが行うタイプの同性間性交渉は、仲間同士の絆と呼び、自分たちが行わないタイプの同性間性交渉は同性愛という蔑称で呼ぶらしい。
つまり、この同性愛嫌悪は、「自分たちのセックスはすべて正しく、自分たち以外のセックスはすべて間違っている」と言っているに過ぎない。
理屈もへったくれもない男の自分たち崇拝である。
また、野球では、知らない他者が決めた理屈もへったくれもない男のルールをやみくもに守って、陰茎、睾丸、肛門の使いかたを裁く。
陰茎、睾丸、肛門を、ルール通りに使える者が、理屈もへったくれもなく男の野球のスターとされる。
理屈もへったくれもない野球を好むのは、一部の、理屈もへったくれもない男のマチズモ好事家だけである。
(ちなみに、野球を好んで観るかたの中には、野球選手の大きな尻に性的に興奮するゲイもいて、彼らはマチズモ好事家ではないかもしれないが、野球好きなのではなく尻が好きなのである)
この映画のドワイトは、野球が大好き。もちろんマチズモ好事家だ。
息子と野球を楽しむ。マチズモ好事家だ。
野球を通して、息子と男らしさを肯定する。実際、男らしくあれとルーカスを教育する場面も描かれている。マチズモ好事家だ。
ドワイトが息子に対して行うことは、この二種類のマチズモ好事だけだ。他には何もしない。
子供にマチズモ好事を叩き込むこと。
それだけがマチズモ好事家にとっての家族制度における父の役割だ。
息子もそんなマチズモ父を慕ってやまない。
男であると承認されて、つまり、差別主義者であると承認されて気持ちが良いのだろう。
そうして、権力という集団幻覚に承認幻覚による快感を見出す中毒者が一体出来上がる。
幻覚でないのは、彼らの及ぼす被害だけである。
かつて、厚生省では、男性の育児参加が不十分であるために、女性にばかりに育児の負担がかかっていることを解消するため、「子育てをしない男を父親と呼ばない」というキャッチ・コピーのついたポスターを造ったことがあった。
この場合の「子育て」は、曖昧だ。
男の子とはキャッチボールして、マチズモ好事家である自分のコピーを製造する。
女の子には男の目を楽しませる身なりを叩き込んで、マチズモ崇拝者を製造する。
それがマチズモ好事家にとっての、「『父親らしい』子育て」だ。
だから例のキャッチ・コピーにひとつ補足したくなる。
野球好きの男を父親と呼ばない。
ある日、ルーカスは三日間の停学処分になる。
同級生がふざけて水風船を教師の背中にぶつけた。その同級生は自分がやったことと証言しなかった。
ルーカスは、それを卑怯だと同級生と責め、殴り合いの喧嘩になったことが停学の原因だった。
ルーカスは、ドワイトにその顛末を話すと、「理由がどうあろうと、とにかく殴るのは悪い」と、言い分には聞く耳を持たない。
さすが、理屈もへったくれもない男のルールをやみくもに守るのが大好きな、理屈もへったくれもない男の野球ファンである。
ところで。
野球についてばかり書いたが、この映画は実は、「野球好きの悪辣さ」がテーマの映画ではないのだ。
ただ、野球好きは性差別主義者である、という、見た通りのことが共通見解となってストーリーが進行していく。
日本では、驚くべきことに、野球好きは軽蔑すべき対象とはされていないようだ。
「アメリカ南部白人」は「人種差別、性差別主義者」の代名詞として否定的に使われるが、「九州男児」という言葉には否定的な意味合いが付与されることは一般にはほとんどない。日本における「野球ファン」も同様だ。恵まれているというか、甘やかされているというか。
特に非のない映画ではあるが、観ているあいだ、苛立ちを禁じ得なかった。
それは、映画の中で描かれる野球の試合や野球ファンの姿への苛立ちというより、むしろ、勝手に想像した日本の鑑賞者への苛立ちだった。
野球に過剰に「理解ある」優しい日本のマジョリティが観ていることを想像した。
ルースとドワイトの離婚の理由が、念を押して何度も「野球」と描かれているにもかかわらず、野球を問題視しない鑑賞者にはその理由をわからないだろう、と想像した。
ドワイトは、ルーカスとの野球観戦からの帰り道の車で、子供を轢いてしまい、そのまま逃走する。
ルーカスには、丸太に当たっただけだ、と嘘をつく。
事故の翌朝、弁護士事務所で約束していたクライアントの女性との面会の時間に遅刻してしまう。
「トラブルがあって遅れた」と言い訳をし、クライアントの機嫌を損ねたかもしれないフォローとして、「綺麗だね。少し痩せた?」と続ける。
男が暴力で組み伏せやすいように痩せている女を綺麗な女と設定するマチズモ好事家の好みしか見えていない意見を言い、視野の偏狭さを露呈する。
一方、車に轢かれて死んでしまったのは、十歳のジョシュ。
心優しいジョシュは、瓶に捕獲したホタルを、「そのままではホタルが死んでしまう」と母親のグレースに言われ、ホタルを逃がしていたところだった。
グレースは、自分が言ったことでジョシュを死なせることになってしまったと罪悪感を抱く。嘆き戸惑いながらも、残された夫や娘との生活を大切にしようと気丈に先を見つめる。
ジョシュの妹エマも、また悲しみの先で、ジョシュを悼み、天国のジョシュに音楽が届くようにとピアノの練習に励む。
しかし、ジョシュの父イーサンは、なかなか進まない警察の捜査に苛立ちながら、轢き逃げ犯への憎しみに取り憑かれていく。
そして、ジョシュが事件を追うために依頼した弁護士は、轢き逃げ犯のドワイトだった。
ジョシュとエマの母グレースは、悲しみの向こうで、怒りをもって、エマを守る。
男の、男としての憎しみから。
ルーカスの母ルースは、間違った結婚という悲しみの向こうで、怒りをもって、ルーカスを守る。
野球から。男の、男としてのナルシズムの共有から。
イーサンのとりつかれた憎しみは、男性性が、悲しみを憎しみへ変貌させてしまったもの。
イーサン自身の内にある、父親という、男の自尊心。
ドワイトの背後にある、野球という、男の自尊心。
グレースは、母として子を愛しているのではない。
かけがえのない、そこにしかいないジョシュやエマを愛していた。
ルースは、母として子を愛しているのではない。
かけがえのない、そこにしかいないルーカスを愛していた。
ドワイトは、父親という立場を通してのみ、男の子を愛していただけ。
イーサンは、父親という立場を通してのみ、子供たちを愛していただけ。
そして、イーサンは、それ以降の出来事を通じて、憎しみに擬装された悲しみを、ただ悲しみとして受け入れられるようになってゆく。
イーサンが、夫や父親という「立場」ではなく、ジョシュを、エマを、グレースを愛する者になっていく軌跡は、感動的だ。
だから例のキャッチ・コピーにもうひとつ補足したくなる。
父親という自分の役割を愛するより、目の前の子供を愛そう。
ところで! エマ、グレース、イーサンの暮らす家には、お手がとても上手ないぬがいるよー! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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