感動がこわい
ファースト・ワイフ・クラブ (1996) The First Wives Club
これは、とても楽しく観られる映画です。
ゴールディ・ホーン、ベット・ミドラー、ダイアン・キートン、そしてマギー・スミスの生き生きとした姿を観るたび、気分が軽やかになります。
が、冒頭のエピソードだけは、やりきれないです。
長年夫を支え続けた中年女シンシアが、手酷く見捨てられ、ビルから身を投げるのです。
女が歳を取ると、男から、男の権益のおこぼれを欲しがる女から、ないがしろにされます。
あまりにありふれたことなので慣れてしまいそうになりますが、慣れることで問題が矮小化されることが、余計にやりきれないことです。
かつて森高千里は『臭いものにはフタをしろ!!』で、「そんな言い方平気でしてると おじさんと呼ぶわよ」と、威張った男を脅したけれど、男はそんなことを気にとめてはいません。
森高千里がいくらおじさんと呼ぼうと、おじさんを尊重するかたは後を絶たず、おばさんを蔑むかたは後を絶たない。それが男社会というものです。
大学時代は互いを親友だと思っていたけれど、それぞれ男と結婚してから疎遠になっていた、エリース(ゴールディ・ホーン)、ブレンダ(ベット・ミドラー)、アニー(ダイアン・キートン)は、シンシアの葬式で再会します。
「シンシアはなぜ自殺を?」
「若さを犠牲にして、夫のエゴや誇りや野心を支え続けて、ついに心の糸が切れたのよ」
3名は、自殺したシンシアの事情をすぐに了解します。
映画俳優のエリースは、夫ビルを映画プロデューサーに育てあげましたが、ビルはエリースの財産を奪い、エリースの仕事をお気に入りの若い女優にまわし、エリースを捨てようとしていました。
アニーは、別居中の夫アーロンとの関係を修復しようと、精神科医レスリーのセラピーを受けていました。が、ある日突然アーロンから、レスリーと再婚すると告げられます。
ブレンダが支え続けた電器店チェーンを経営する夫モーティは、レジ係の娘シェリーと大っぴらにいちゃつきます。シェリーは得意満面でブレンダを肥満となじります。
3名とも、結婚以来何年も陰で夫を支え、成功の梯子を昇るのを手伝ってきました。
夫たちは皆、成功しお金を使えるようになると、若くセクシーで男(のお金)に媚びまくる女に走り、奪えそうなものは片端から奪い取り、妻を使い捨てたのです。
自殺したシンシアとあまりに似た状況でした。
3名は、嘆きながら、男たちの横暴さと卑劣さにやっと思い当たり、怒りを表出します。
「それでどうするの? 復讐でもする?」
「復讐じゃないわ。これは正義よ。正義の刃(やいば)を振りおろしてやるのよ」
「女の世話になるのが当然だと思ってるわ。ギャフンと言わせるの」
「ポイ捨てよ。ボディコン娘に捨てられる哀れな姿を6時のニュースで流してやる。これで世界平和よ」
「あげまん女房を捨てた夫を転落させるの」
「正義が団結すれば、他に何が要ると言うの? 3人揃えば向かうところ敵なしよ。誇りを持って立ち上がるの」
そうして、『最初の妻(ファースト・ワイフ)クラブ』を結成します。急速な気づきと連帯にジンとくる名シーンです。
夫たちが好き放題にふるまう力の源のひとつは、男ばかりを甘やかす男社会が男にばかり簡単に割り振るお金。
社交界の大御所ガニラ(マギー・スミス)や、アニーの娘クリス(ジェニファー・ダンガス)の協力を得て、男に奪われたお金の力を奪還すべく奮闘します。
クリスはレズビアン。クリスは、とてもラッキーでした。
母アニーが、男との関係から気付きを得て、ちょっとフェミニスト化。そのおかげで悩むことなくカミングアウトができました。
とんとん拍子に進む、夫たちを懲らしめる計画。
男の情けない身勝手さを、ちょっと大袈裟に見せかけて、でも、現実そのままに描かれます。
女の勇気を、ちょっと大袈裟に見せかけて、現実そのままに描かれます。
明るく、楽しく、賑やかに。
男に、男家庭に、奪われていた自分を取り戻した3名の生き生きとした姿は、感動的です。
彼女たちが、自責し陰欝な日常を送る暇もなく、すぐに立ち上がることが出来たのは、これがコメディ・テイストの作品として話のテンポを重視したということもあるでしょうけれど、それ以上に彼女たちが過去のフェミニストたちの蓄積に、それまで生きてきた端々で触れてきたためでしょう。
たとえば、ブレンダの家の冷蔵庫の扉には、太った女のヌード・ポートレイト写真が3枚張ってあります。
女を無意識に奴隷とみなす男社会に設定された、有り得ないほどにやせ細った理想の女。写真家ローリー・トビー・エディソンは、肥満と呼ばれ蔑みの対象となっていた身体を、本来の美しいものとして復権させました。
参考:ローリー・トビー・エディソン写真展(開催終了)
ファット・フェミニズムと呼ばれるローリーたちの活動は、ブレンダが日常を生きる糧となっていたであろうことが、冷蔵庫の扉の写真から伺えます。
肥満を醜いと設定したものが何かわかっていても、夫の愛人になじられたとき、ブレンダは悔しさに泣くしかできません。
どんなにわかっていても、その知を、日常の中ではうまく使えない。
太目の中年女の言葉は聞く耳を持たれていないのです。
彼女たちは、日常の中の性差別にずっと気付いていました。
自分たちが捨てられることになってはじめて性差別について思い当たったというわけではないのです。
当事者としての痛みが強くなってはじめて、行動を起こします。
きっかけがどうあれ、立ち上がった彼女たちの姿は、お手本となります。
活動の成功をおさめた彼女たちは、シンシアの名を冠した女性財団を設立し、自分たちと同じような被害者女性の救済事業を始めます。
大学卒業以来、男の婚姻制度によって分断されてきた彼女たちでしたが、再び連帯し、「生」の喜びを取り戻します。
生きにくい世の中だね。だけど、一緒に生きやすい世の中を目指そう。
そう言っているような、ポジティブな「生」のメッセージに。観るたび感動します。
生きにくさに息を詰まらせた者たちが、生きやすさを求める姿は感動的です。
『ファースト・ワイフ・クラブ』は、女の生きやすさのためのクラブでした。
クラブの結成時、「これは正義だ」という台詞がありました。
彼女たちの正義には、涙が出るほど感動します。
ただ単に、自分の生きやすさを希求するのは、それだけでは、正義とはとても言えません。
女を搾取して男ばかりが得をしようとすること、奴隷をこき使って自分たちが楽をしようとすること。
差別はまさに、差別できる立場の当事者性のために、生きやすさのために行われます。
それはもちろん正義ではありません。
アマゾネス帝国を支配する女性たちが、更なる女性の生きやすさのために男の奴隷化を推し進める映画かあったとします。
それにはたぶん、平等の理念においての感動はありません。
不当に「生きること」を疎外された者が、「生きやすさ」を求めることが正義とされるのは、平等の理念に基づいています。
生きやすさの希求の正しさは、社会的立場に依存しています。
誰もが生きやすい明るい社会を。誰が誰をも支配しない明るい社会を。
女性救済財団発足パーティの後、3名は陽気に歌い踊り手を取り合って快哉をあげます。
ずっと男社会に邪魔され見つけられなかった連帯をやっと見つけた喜びに、楽しく歌い踊る3名の姿にはジンとくる。
男社会の生きにくさの中で、生きやすさを求めているかたがたに、この映画は眩しいほどの輝きを見せてくれるでしょう。
この女性救済財団のように、人権活動は、被差別当事者によって担われることが多い。
活動の目的は「正しさ」ではなく、被差別当事者の「生きやすさ」。
その「生きやすさ」の正しさを保証するのは、社会状況。
女性差別であるなら、男と女の関係においての正しさ。
つまり、生きやすさは、その差別問題においての、差別者に対しての正しさなのです。
男性の、自分たちの生きやすさを求めた、当事者性をもとにした連帯によって、女性蔑視は育まれ維持されます。
差別者が、差別の権利があると信じる根拠は、自分たちの人権。自分たちには生きやすさを求める権利があるという思い込み。人権は、生の絶対的な肯定を前提にします。
しかし、ある事柄の絶対的肯定は、何かを排除していないでしょうか。
誰もが、明るい、あたたかい連帯を求めるものと、生きやすさのために。
生きやすさを求めて何が悪い?
そう言って、男は男の生きやすさを求め、それを可能にするお金を持っているならば、若い愛人をかこい、中年女を使い捨てる。
男たちの差別連帯は、男の生きやすさを希求し、当事者性を強固にすることによって成り立っています。
生きやすさを求めて何が悪い?
そう言って、人権系フェミニズムは男から奪われた生きやすさの奪還を望む。
しかし、人権運動が、差別構造の解体を指向するのは、当事者としての生きやすさに抵触しない範囲においてのみであることが多い。
互いに連帯し、明るく生きていこう。
差別者の、生きやすさの希求、当事者の連帯によって差別は起こっている。
被差別者の、生きやすさの希求、当事者の連帯、それの何が悪いの?
そう考えるとき、差別を悪いと言う、正しさの根拠は希薄になる。
あいつらもやっているじゃない? 私たちもやる。根拠はそれだけになってしまう。
それでもなお、社会状況が、その正しさを保証してはいるけれど。
そもそもの目的が生きやすさであるなら、正しさが生きやすさを疎外するとき、活動は平気で正しさを切り捨てます。
女の生きやすさの明るい希求が正しさを持ち得るは、男に対してのみなのです。
生きにくさの解消のため。生きやすさのため。
それは、不均衡が是正されるまでのとりあえずの仮の要求。その正しさはあくまで仮のもの。
それを忘れてしまうなら、自分たちには、自分たちだけが得をしたいというわがままを追究する権利がある。そこにしか行き着かないのではないでしょうか。
その差別問題においてのみ、その考えが発動するのならよいのです。
男社会が、男の価値を信じない女を切り捨てるように、生きやすさの価値を信じないものを切り捨ててはいないでしょうか。
男社会が、男や女への帰属を信じない者を切り捨てるように、当事者性を拒絶するものを切り捨ててはいないでしょうか。
男社会が、男社会に与しない者を切り捨てるように、連帯を最優先としないものを切り捨ててはいないでしょうか。
映画のエンディング・テーマ“Over and Over”も、何度繰り返し聴いたことでしょう。
「人生に絶望しても マッチをすって炎をともそう 新しい道を明るく照らすために」、「あきらめないで」、「前を見つめて進んでいくの 歩き続けるの」
そんな歌詞が、パフ・ジョンソンの力強い声で歌いあげられるとやはり胸が熱くなりますが、そのポジティブな感動が恐ろしい。
1980年代以降、軽薄な明るさをもてはやし、根暗なものを陰湿に切り捨てた風潮がありました。
その風潮は、今でも続いているでしょう。
明るいかたがたが、根暗なかたを陰険にいじめることは、よくあります。
いじめと呼ばれるほどではなくても、暗いものを敬遠した結果として排除が行われることもよくあります。
あまりにありふれたことなので慣れてしまいそうになりますが、慣れることで問題が矮小化されることが、余計にやりきれないことです。
その陰湿な明るさと、「生」の絶対肯定は、あまりに似てはいないでしょうか。
この映画、大好きです。
好きと感じるとき、その好きという気持ちが起こる源である、明るく前向きな「生」の肯定と、その「生」による連帯が、ある種の他者を、自分の内の一部を、切り捨てています。
これは、とても楽しく観られる映画です。わたしは、その楽しさを肯定します。
同時に、その楽しさが、とても恐ろしいのです。
あ! そうそう! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
(次回、いぬのえいがひょう vol.055に続く)
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First Wives Club [Soundtrack] [Import] [from US]
(Puff Johnson “Over and Over”収録)
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(『臭いものにはフタをしろ!!』収録)
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