レインボーカラーに黒はなかった
[いぬのえいがひょう] vol.055
めぐりあう時間たち (2002) The Hours
1923年、英国ロンドン郊外のリッチモンド。
作家のヴァージニア・ウルフは、病気療養のために夫レナードとこの町に住み、『ダロウェイ夫人』を執筆しています。
そんな彼女のもとに、姉ヴァネッサとその子どもたちが訪ねてきます。お茶会が終わり、姉たちが帰ったあと、ヴァージニアは突然駅へと急ぎ、追ってきたレナードに悲痛な苦悩を吐露します。
レナードがヴァージニアの為にと思ってきことは、意識せずとも規範の押し付けに他ならなかったのでしょうか。
1951年、米国ロスアンジェルス。
専業主婦のローラ・ブラウンは妊娠しています。
夫ダンは優しかったが、ローラは、彼が望む理想の妻を演じることに疲れ果てています。
ダンの誕生日のパーティを準備中、親友キティがやってきて、腫瘍のため入院すると泣きながら告げます。
ローラは、息子リッチーを隣人に預け、大量の睡眠薬を持って一人ホテルへと向かい、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』を開きます。
2001年、米国ニューヨーク。
雑誌編集者クラリッサ・ヴォーンは、HIVに感染した友人の作家リチャードの受賞パーティの準備をしています。
クラリッサは、昔リチャードが自分につけたニックネーム「ミセス・ダロウェイ」を、いつもどこかで気にかけています。
クラリッサは、リチャードの世話をすることに自らの存在意義を見出そうとしているのでした…。
他人の為に生きること、人と人の関係に侵食する社会性に枷(かせ)をはめられて、または自ら枷をつくって、それしか選択肢がないこと。
それぞれの時代で、いわゆる「名前のない問題」を接点に、3名それぞれの抑圧は、時間を越えて繋がってゆきます。
抑圧による生きにくさからの解放を求める女性の姿を描いた映画は、数多くあります。
『歌う女・歌わない女』、『9時から5時まで
』、『緋文字
』、『旅する女 シャーリー・バレンタイン』、『テルマ&ルイーズ
』、『スタンドアップ
』、『4ヶ月、3週と2日
』、『JUNO ジュノ
』。前回のえいがひょうでとりあげた『ファースト・ワイフ・クラブ
』もそういった作品のひとつでしょう。
どれも素晴らしい映画です。これらの映画は「名前のない問題」の抑圧下で生きやすさを阻害されたかたへの希望の光になっているでしょう。
描かれる事態の深刻さや、映画としての描写の重さ軽さの度合いはそれぞれであっても、それら全てに共通するのは、女性の「生の絶対肯定」でした。
『めぐりあう時間たち 』に感じる、それらの映画との決定的な差異はその点です。
自殺したいという欲求と共に生きる、ヴァージニアやローラ。
彼女たちには、それぞれの夫が、「生きやすさ」を勧めます。
この夫たちには、妻の望みに耳を傾ける優しさがあります。しかし、耳を貸せるのは、「生きること」の肯定を前提にした範囲のみ。そこを漏れる範囲は想定されていません。
ヴァージニアとローラは、その優しささえが重荷になり、ひそかに死を見つめます。
ここでは、「生の絶対肯定」が切り捨ててきた「死の希求」が描かれているのです。
『ダロウェイ夫人』を接点に時間を越えて繋がる3名のうち、クラリッサだけは、自らの死と共に生きてはいません。
共に生きようと、友達以上の特別な存在であるリチャードにあたたかい連帯を勧めます。
クラリッサと同棲中の恋人サリーは、クラリッサのリチャードへの執着に半ば呆れています。
リチャードは、クラリッサが世話を焼いてくれることに、感謝する反面、はっきり言葉にはしませんが、迷惑とも感じます。
放っておかれたら生きていけないかたが、共に生きていくための世話をされること。
それの何が迷惑なのでしょう。
それは、エロスを信奉する者には見えない、タナトスの阻害なのではないでしょうか。
リチャードがクラリッサから受ける抑圧と、ローラが夫ダンから受ける抑圧は、性差別の枠組みだけで見ると一見、全く違ったものに見えます。
ゲイであるリチャードと、レズビアンであるクラリッサは、旧来の家父長制的な性役割からは外れており、つがいとしてのパートナーシップではなく、友愛としてのパートナーシップを結びます。
しかし、旧来の「生」の役割を信じるクラリッサと、「生」と同時に「死」に魅かれるリチャード。生死観は大きく異なります。
注釈なしの「恋愛」という言葉から、異性愛しか思い浮かべない異性愛者。
同性愛者が同じ言葉を聞けば、異性愛と同時に同性愛を、同性愛と同時に異性愛を、必ず思い浮かべます。
クラリッサとリチャードの生死観の差異は、それと似ています。
「生」という言葉から、「生」だけを思い浮かべるクラリッサ。
リチャードが同じ言葉を聞けば、「生」と同時に「死」を思い浮かべるでしょう。
一方、ローラとその夫ダン。
ダンにとって、正しい「生」の在り方は、家の外で働く男を女が支え明るい家族を維持する、というもの。
それが、ダンにとってもローラにとっても唯一の幸せであるとダンが信じています。
それは、「名前のない問題」そのもの。
性支配に関する「名前のない問題」は、現在では名前を持ちました。
社会に浸透するペースが速いとは言えませんが、とりあえず、問題視されています。
しかし、「生」の支配に関する「名前のない問題」には、まだ、名前がありません。
男社会がダンを通じてローラに行う抑圧。この「男社会」を、ふたつに分けてみましょう。
・男は、性の規範によってローラを抑圧しています。
・社会は、「生」の規範によってローラを抑圧しています。
クラリッサがリチャードに行っているものもダンと同じく、「生」の規範による抑圧です。
クラリッサたちの生きている2001年は、ローラが若い頃経験した時代より性役割の絶対視が払拭されているにせよ、まだ性差別意識が根強く残っています。
リチャードは男であるため、クラリッサよりも、無意識の関係性において、社会の、男の女排除が影響し、発言権を持ちうるでしょう。
男の女排除によってリチャードにクラリッサを抑圧できる権力がある。
しかし、その権力関係のせいで余計に、エロスのタナトス排除によってクラリッサにはリチャードを抑圧できる権力が付与されていることが見過ごされがちになるのではないでしょうか。
リチャードは、当然のように「生」を勧めるクラリッサの隣で、じっと死を見つめて過ごします。
女として男社会の抑圧から逃れる自由を求めているローラは、同時に、リチャードと同じく、タナトスの立場からエロスの抑圧から逃れる自由も求めていました。
それぞれの抑圧をまとめてみましょう。
ヴァージニア
夫から、「生」の規範を強要される/夫から、固定的な性役割規範を強要されない
ローラ
夫から、「生」の規範を強要される/夫から、固定的な性役割規範を強要される
クラリッサ
リチャードに、「生」の規範を強要する/リチャードに、固定的な性役割規範を強要しない
リチャード
クラリッサから、「生」の規範を強要される/クラリッサから、固定的な性役割規範を強要されない
これらの規範の強要はすべて、善意によるもの。
「生」の規範も、固定的な性役割規範も、それが望ましい幸福として、他者に勧められているのです。
ところで、固定的な性役割規範の解体を目指す性差別解消の活動があります。
その活動は、たいていの場合、「生」の規範をもって行われ、当事者の自己承認のために連帯することが、最優先事項となりがちです。
性差別の被害とは、生きやすさ、エロスの侵害。
あくまで、人権運動、なのです。人間を絶対肯定し、前向きに生きる権利ための運動なのです。
前向きではないイメージの言葉は敬遠されます。
「生」の連帯を描いた他の映画では、目の前の他者と繋がりあいますが、『めぐりあう時間たち』では、時間によって個々の繋がりは分断されています。
そして、タナトスの連帯は、時間を隔てた言葉のみの繋がりだけが許可され、リアルタイムでは分断される。
その許可と分断はまるで、同性愛弾圧が激しい社会で生き、過去の文学作品に触れるときのみ同性愛と戯れることが許された同性愛者のようです。
この映画の中で、ヴァージニアとローラを同時代で連帯させないのは、社会が「生」の規範によって運用されていることを示唆しているのではないでしょうか。
固定的な性役割の価値を絶対視し、皆がそうあるべきと「善意で」思い、生を営むこと。
その性の営み自体が、社会の中で数が集まれば、その性から漏れる者への抑圧と排除を生み出します。
生きやすさの価値を絶対視し、皆がそうあるべきと「善意で」思い、生を営むこと。
その生の営み自体が、社会の中で数が集まれば、その生から漏れる者への抑圧と排除を生み出します。
「性」の信奉と「生」の信奉は、社会的に正しさを設定されています。
ローラは、幼い子どもリッチーと夫ダンを置き去りにして家を飛び出しますが、それ以降、自責の念に苛まれ続けます。
リッチーへの責任を放棄した罪の意識と、ダンの善意に答えられなかった申し訳なさと。
それに加えて、生を肯定しきれなくて申し訳ない、とも感じていたように思えます。
男の絶対肯定によってなりたっている家庭なのに、男の精一杯の愛情に答えられなかった。
生の絶対肯定によってなりたっている社会なのに、生(の支配)に尽くしきれなかった。
内面化された「性」と「生」の正しさがローラを責めたてるのです。
そして、抑圧の解体をうたう反差別の活動においても、タナトスへの抑圧は可視化されにくいものです。
その活動のそもそもの目的が、「生きやすさ」のためであることが多いからではないでしょうか。
そして、生きやすさの平等分配を、「正しさ」と設定し、それを軸として活動を行います。
しかし、その正しさは、社会の状況に依拠した相対的なものです。
当事者性に依存した正しさなどありません。
もちろん、正しさではないからといって、それが間違いということではありません。
ただ、その正しさの理由が、生きやすさの絶対視であるなら、それは、抑圧を否定しながら、同じような構造の抑圧を生み出しているのではないでしょうか。
男-女間の抑圧を否定するために、エロス-タナトス間の抑圧を。
しかし、正しさに魅かれているのは、それが、明るくきらきら輝いて見えるあいだだけ。
生きやすさを疎外しないときだけ。
そして、正しさが生きやすさを疎外する局面では、正しさは放りだされます。
そもそもの目的は、生きやすさの希求なのですから。
生きやすさを求める活動は、生きやすさを疎外する者にとってもわかりやすいものです。
同じことを違う立場でやっているから。
だから、差別する立場のかたに差別解消を訴えるときは、「自分が差別される立場だったらどう感じますか?」と、自分の身に置き換えさせて考えさせることが多いのでしょう。
差別は、生きやすさを求める当事者性に基づいて行われます。
当事者性に基づいて行う反差別の活動も同じく、生きやすさを求める当事者性に基づいて肯定されます。
そこで、「生きやすさを求めない者は、活動にとって関係ない、無視してよい」という考えもあるでしょう。
激しい同性愛嫌悪を持ったかたが、「ホモやレズには2丁目があるじゃん。キモいから2丁目から出てくんな」と言っているのを聞いたことがあります。
それを聞いたとき、ユダヤ人をゲットーに押し込めたナチスのようだと思いましたが、明るい連帯だけを目指す人権運動にも、全く同じ感覚を抱きました。
固定的生きやすさの価値を絶対視し、皆がそうあるべきと「善意で」奨め、それに賛同しない者は排除する。
たいていの人権運動が本当に求めているのは差別の解体などではなく、生きやすさと連帯なのでしょう。
もちろん、正当性のあやふやな正しさのための活動など要りません。
しかし、生きやすさのための活動は、その、生きやすさというものへの価値設定自体が権力性を持ちます。
では、差別解消の活動は、一切無意味なのでしょうか。
そうとも思いません。
正しさはなくても、間違いはわかるのです。
あるもの『A』を絶対的に正しいと言うあるかたが、同時に、同じ『A』は絶対的に誤りだと言ったら、それは間違っています。
断言しますが、差別的思想は必ず、そういう自己矛盾を抱えた論理的な間違いによって成り立っています。
最終的に是正すべき問題は、その論理的な間違いなのではないでしょか。
正しさのために誤りの是正するのではなく、誤りだから、誤りを是正する。
そこに肯定はなく、否定しかありません。
それで良いのではないでしょうか。
自己も他者も否定しない円滑な共生を規範として信じているなら、その否定ばかりの考えは受け容れられにくいかもしれません。
ただ、自己も他者も否定しない、「生」の肯定は、ヴァージニアを、ローラを、リチャードを、暗いと言われるものを、排除しているという意識さえなく、切り捨てているのではないでしょうか。
多様なセクシュアリティの共生を謳うレインボーパレードには、暗さを前面に出したフロートはありませんでした。
(ある年のG-MENフロートは黒をテーマカラーにしていましたけれど、あれは闇の黒ではないでしょう)
『めぐりあう時間たち』の、濁流のような、重みに引き込まれるテーマ曲を流した真っ暗なフロートがひとつくらいあったらと思うと、わくわくしてしまします。
が、あれは、「生」だけを信じるかたが対象のパレードなのでしょうね。
現状、戦略的にも、そのほうが効果的なのでしょう。
それはともかく、現状の大抵の差別解消運動は、パフォーマティヴ・アクションと言えるでしょう。
持てるものと持てないものとの富(物質とは限りません)の分配を平等にする。
性差別に対するそれは、男と、女と、男や女でないかたへ、均等分配を目指します。
『めぐりあう時間たち 』は、明るさと暗さのパフォーマティヴ・アクションにおいて、とても魅力的な映画です。
自他から受ける「生」の抑圧に苛まれながら、ヴァージニアは死んだ小鳥を見つめ、ローラはホテルのベッドで死を見つめ、リチャードはアパートの下の地面を見つめます。
エロスの分配は、タナトスの排除を伴い、明るさの分配は、暗さの排除を伴いがちです。
ヴァージニアが身を沈めていった、濁った水が渦巻く川底の暗さを忘れないでいるために、この映画、繰り返して観てしまいます。
あ! そうそう! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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