「名前のない問題」はいまや
[ネタバレ上等! クマのエイガヒョウ 006]
Take
My Eyes(2003)Te doy
mis ojos
10月21日に、東京国際女性映画祭で観てきたー。
映画祭のサイトには、こんな解説が↓。
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夫の暴力に苦しみながら、女性はなぜ、そんな男と何度もやりなおそうとするのか。愛を訴えながら妻を殴る男とは、何者なのか。古都トレドを舞台にして、女優でもあるイシアル・ボリャン監督が家庭内暴力問題の内側に分け入った作品。(スペイン/2003年/109分)
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5年前の作品だけど、日本未公開のため英題そのまんま(一応日活が上映権を持っている)。ドキュメンタリーではなく、ドラマ映画。
●あらすじ●
主人公のイルラは夫アントニオの暴力に耐えかね、息子ホアンを連れて妹のアパートに身を寄せ、妹の口利きにより美術館で働きはじめる。アントニオはDV夫たちの自助グループに参加して、怒りをコントロールする方法を学び、かれの努力を認めたイルラは一時的にアントニオの元に戻る(ハネムーン期)。
仕事を得て、妹家族や職場仲間の女たちに支えられて自信を持ちはじめたイルラは、美術館で絵画の解説員となるべく勉強をはじめるが、アントニオはイルラがステップアップしていくのが面白くなく(職業人としての嫉妬)、自分から離れていくのではないかという不安を、別な男をつくるのではないかという嫉妬心に転換して(緊張の蓄積期)、イルラのキャリアアップを徹底的に邪魔する(暴力爆発期)。
アントニオが信用できなくなったイルラは、女友だちたちの助けを借りて荷物を引き払い、アントニオの元を去る。イルラを呆然と見送るアントニオが後に残される。
●思ったこと●
加害者の自助グループやカウンセラー(あるいは精神科医)へのアクセスが意外に容易である。イルラが出ていったのを深刻にとらえて、自分が変わろうと援助機関にアクセスしたアントニオは偉いなと思ったが、緊張の蓄積期には、アントニオは精神科医のカウンセリングを受けていることを屈辱と感じて、イルラに不満をぶつけるシーンがある。
ハネムーン期が落ち着いたころ、アントニオは兄の家の改修を手伝うため、イルラとホアンを連れていくが、兄から屈辱的な発言を受け、それを兄本人には異議申し立てせず、帰りの車のなかでイルラに愚痴る。黙っているイルラにイライラして、怒りをぶつける。典型的な内弁慶である。自分のコントロールの及ぶ範囲であれば安心して粗暴な振る舞いができるのである。
イルラが美術館の受付係から絵画の解説員になろうと勉強をはじめたとき、アントニオは美術書をプレゼントしてサポーティブな態度をとったが、仕事に自信を持ちはじめて輝きだしたイルラを、「ひとに見られたくてめかしこんでいる」とひがむようになる。イルラが解説員の審査を受けるためマドリードへ行く日には、見捨てられ不安と職業人的嫉妬(アントニオは一族が経営する電気店の販売員で昇給の見込みなし)から、イルラを精神的に痛めつけて外出を阻む。しまいには、「お前が出ていくなら俺は死ぬ!」と脅して、刃物で自分の両腕を斬りつける。子どものだだこねならまだ可愛いが、大の大人の男がだだをこねると暴力となって発現するからたまったものではない。
怒りをコントロールする方法を身につけようと努力していたときには、アントニオはイルラに対して自分が強者であることを自覚し、弱い者に対して優しく接しようと心がけていたはずだが、イルラがアントニオのコントロール可能な範囲を超えようとすると、結局暴力で押さえ込もうとしてしまう。イルラには決してアントニオを捨てる気はなく、アントニオが支えていてくれるからこそ仕事に精を出そうとしていたのだが、妻のキャリアアップとか昇進とか昇給というものは、夫のプライドを危うくするものらしい。
タイトルの「Take My Eyes」とは、ハネムーン期のイルラがアントニオとのセックスのときに、「私の耳をあげる。口もあげる。あなたは手をくれた。わたしは目もあげる」と語っていたところから。恋人同士が一心同体になりたいと願い、特に女性の側が男性に自分のなにもかもを委ねようとするのはたいへん危険なことである。アントニオにマドリード行きを邪魔されて精神的に多大なダメージを受けたイルラは、ようやくそのことの危険さに気づき、「私は自分が何ものなのかわかっていなかった。私の目は見えていなかった」と妹に告白するシーンと好対照をなしている。
暴力を振るう夫から逃げ出そうと決心すること、さらには避難先があること、再就職先があること、そこでの仲間たちのサポートが得られることなど、あらゆる意味でイルラは恵まれた環境にいる。イルラの母は保守的な夫婦観から、イルラに早く夫の元へ帰るよう説得したが、性愛関係に関してリベラルな妹は絶対に帰ってはいけないと釘を刺した。しかし、ハネムーン期にさしかかったイルラは、妹の助言を振り切ってアントニオの元に戻ってしまう。その際に落胆した妹を支えたのは、おそらく妹と同様にリベラルな妹のフィアンセだっただろう。親密な他者からの暴力によって心神喪失状態に陥った当事者を温かく支援する環境の整備と同時に、支援者を支援する仕組みづくりも必要である。
映画を通じて、結果的に変化したのはイルラであった。かのじょにとって夫からの自立は、夫と対等な関係を構築するための足がかりだったはずである。一方のアントニオは、自助グループ通いで「俺はきっと変わってみせる」とイルラに宣言したものの、結局変わりはしなかった。アントニオに必要な変化とは、妻からの自立だったはずである。映画のラストシーンで、アパートの窓から呆然とイルラの後ろ姿を眺めているアントニオの無表情な顔はいたく不気味であった。いまや「名前のない問題」とは、夫たちが抱えるようになった模様。
あ、そうそう。この日はゲストとしてシェルターネットのえんどぅーさんが来てたよ。参加者からDVについての質問を受けるたびに、「諸説紛々なのですが」と苦笑しながら応答してたのが印象的。クマもクマの生態について質問されたら、「諸説紛々なのですが」って言おうっと。
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ああ、見たいなぁ。
いまのところちょっと見る機会がなさそうなので、タイトルだけ覚えておくことにしましょう。
せっかく日本語字幕を作ったのだから、DVDででも出してくれればいいのに。