たかみのけんぶつなんかさせない
[いぬのえいがひょう] vol.056
ゾンビ・ストリッパーズ (2008)
Zombie Strippers!
フェミニスト社会学者のアンドレア・ドウォーキンは自著『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』で、既存のポルノグラフィすべては、女性を、男性の支配の対象としてのみの存在と規定する残虐で傲慢な暴力であると論破しました。
「ポルノグラフィにおける男の権力は、帝国主義的な権力、残虐で傲慢な支配者─権力の快楽と快楽の権力を手に入れようと略奪と征服をし続ける支配者─の権力である。(『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』 P.385)と表現しています。
映画『ゾンビ・ストリッパーズ』の建前のテーマは、帝国主義的な支配の糾弾です。
近未来の米国。第4期目に突入したブッシュ政権は、経済活性化─金持ちの私利私欲のための金儲け─のために現在以上に世界各地で戦争を起こし、慢性的な兵力不足に陥っていました。
そこで、アメリカ軍と生物兵器開発企業が手を組み、死者を甦らせる伝染性のゾンビ化ウィルスを開発します。
軍の下級兵士や実験の被験者として使い捨てられていくのは、移民など米国内の貧困層。
この映画は、征服と支配を目す、帝国主義的な権力を糾弾します。
…などというのは、ゾンビが暴れる舞台を設定するために付けられた言い訳なのは、誰の目にも明らかです。
研究所内では案の定ウィルスが蔓延。討伐のため乗り込んだ兵士も感染してしまいます。
抹殺を恐れた兵士が逃げ込んだ先は、違法のストリップ・クラブ。
人気ナンバー1のストリッパー、キャットが感染します。
ゾンビ化したキャットが、血まみれで踊る迫力ポール・ダンスに、客の男たちは熱狂します。
タイトルは、『ゾンビ・ストリッパーズ』。何の虚飾もないそのままズバリの潔いタイトル。
まずはゾンビのストリッップが見所です。
ストリップは、もちろん、ポルノ産業です。
ストリップを見せるこの映画も、ポルノグラフィの一形態といって語弊はないでしょう。
男たちは、着衣のまま、女たちの裸体を金で買います。
チップ次第で、どこまで脱いで見せるかストリッパーは決める、というシステムのようです。
ショータイム中に、アナウンスが流れます。
「出すのはチップだけにしてください。下半身から何か出したりしないように」
ショータイム中、主導権を握っているのは、ストリッパーなのか、客の男たちなのか、どちらとも言い難い、微妙な駆け引きが行われます。
駆け引きはステージ裏でのパウダールームでも。
ストリッパーたちは、派閥に分かれて、嫉妬による足の引っ張り合い。
誰が見事なショーを見せ、人気を博し、お金を多く稼ぐか。
客の男たちに自分のセクシーな魅力を認めてもらうための舞台を確保するための駆け引きです。
しかし、客の男との、ストリッパー同士の、有利な立場を得るための駆け引きは、ゾンビになったことによって、駆け引きではなくなります。
生者は、危険を避けるために反射的に身体動作に制限が入りますが、ゾンビは、死んだことによって身の危険を顧みないようになるようです。
ゾンビになり運動能力のタガが外れたキャットは、ステージ上でアクロバティックなポール・ダンスをしてみせます。
裂けた肉体から血を飛ばしながら、生者には為しえないキャットのステージの迫力に、客たちは熱狂します。
圧倒的な迫力に、もう駆け引きする余地はありません。男たちはキャットを崇拝するしかありません。
他のストリッパーたちも、キャットのダンスに驚愕し、自分たちも負けてはいられないと、キャットに噛んでもらい、次々ゾンビになっていきます。
女たちのステージ上の懸命な仕事っぷりをニヤニヤ笑いながら見ている男たち。
ストリップに限らず、男たちは、女たちの仕事は、ニヤニヤ笑いながら見ていることが多いでしょう。
働く女たちの姿を描いた映画では、そういう、仕事でのささやかな成功を得るための女同士の争いと、争うまでもなく成功の道が用意されている男の姿が描かれることがままあります。
『ワーキング・ガール』(1988)で描かれたのは、メラニー・グリフィスとシガーニー・ウィーバーが、仕事で争い、ハリソン・フォードを奪い合うさま。
ハリソン・フォードは、2名の女の闘いの顛末をニヤニヤしながら見守るだけです。
男である自分の既得権益は守られ、後は、闘いに勝った女が自分のモノになる。
リスクを負わされるのは女だけです。
『ブラダを着た悪魔』(2006)では、ファッション界のカリスマのメリル・ストリープと、メリルにこき使われながら女の仕事のあり方に悩むアン・ハサウェイは、互いに対立し、異なった選択をしながらも、共に男社会の不条理の中で信頼を培います。
ニヤニヤ見守る男は映画の中では描かれませんが、鑑賞者がその役割を担うのでしょう。
男たちはいつも安全圏にいます。
女たちの足の引っ張り合いを、安全圏にいる男たちがニヤニヤ笑いながら見守るという図式は、現実でも、現実を反映させた映画でも、とても多い。
『ゾンビ・ストリッパーズ』でも、争いは、女同士のあいだでばかり起こります。
「あなたより私のほうが美しい!」
「いいえ! あなたはもう肉が腐ってるじゃない! 死にたてのあたしのほうが美しい!」
髪を引っ張りあって罵り合う女たちを、通常なら、男は高みの見物。
しかし、この映画ではそうはいきません。
『ベーゼ・モア』(2000)は、いつも安全圏にいる男の狡さを憎み、男を次々殺していくナディーヌマニュが主人公。けれど彼女たちは、殺す前に、男たちとのセックスを楽しみました。
『ゾンビ・ストリッパーズ』では、もはや男たちは、安全圏にいられません。性的に欲望される対象にもなりません。
ステージ上から誘惑されふらふら楽屋裏に連れ込まれた男たちは、キスを期待すれば、舌を食いちぎられ、ブロウ・ジョブを期待すればペニスを食いちぎられます。
ドウォーキンが言った、「残虐で傲慢な暴力」のポルノグラフィは、消費する立場と消費される立場が入れ替えできないようになっていることが前提です。
ゾンビ・ストリッパーズは、見事に関係を逆転させました。
更に、女たちの派閥同士の争いでは、手近にいた男からもぎ取った腕で殴りかかり、皿を投げる代わりに男の身体を投げつけます。
ゾンビ・ストリッパーたちの闘いにおいて、男は、食べ物か道具か、どちらかでしかありません。
馬鹿馬鹿しいギャグです。
男たちが家庭で、職場で、学校で繰り広げる闘いにおいて、女は、男のナルシズムのための、食い物か道具かのどちらかでしかありません。
馬鹿馬鹿しいギャグです。
しかし、女を道具として使いながら行う男たちの闘いは、しかしありふれていて当たり前になっていることで陰湿な洗脳支配となり、ギャグで済ませられない現実に書き換えられています。ひどいものです。
ひどい見慣れた光景は、ゾンビ・ストリッパーは性別を逆転して描きなおします。
ところで。
キャットたちは映画のはじめから既にプロのストリッパーですが、ストリッパーになりたてのキャラクターも描かれます。
映画の序盤で、ソックスという若い娘が病気の祖母の手術代を稼ぐためにストリッパーをやりたいと小屋にやってきます。
すると、店にソックスの恋人の男がやってきて、ソックス「純潔な君が好きだ。ストリップなんかやめてくれ」と訴えます。
しかし、店がゾンビだらけになって、死の危険を感じたとき、彼はソックスに「死ぬ前に一発やらせろ」と駄々をこねます。
ソックスは「あなたが純潔を好きだと言っていたのは嘘だったのね」と呆れ果てて彼を見捨てます。
純潔も、その対極とされるポルノグラフィも、男の欲望ために作られた女のありかたです。
『ゾンビ・ストリッパーズ』は、純潔もポルノグラフィを解体し、男たちに突き返してしまいました。
女の性を商品化する男の悪ふざけも、行きすぎると、変質してしまうのでしょうか。
どうせ偏見を向けられるホラー業界、蔑む視線をも笑い飛ばせるホラーマニアな男たちが開き直り、いつの間にか自分の女性蔑視をも笑い飛ばせるようになったのでしょうか。
キャット。ニーチェを読み、男のペニスを食いちぎる、裸のゾンビの女。
男が勝手に帝国主義的な征服対象として設定した、純潔のいい女、または、ポルグラフィのいい女。
キャットらゾンビ・ストリッパーズは、男に都合のいい女の枠を飛び越えて、ほんとうにいい女になってしまいました。
キャットを演じるジェナ・ジェイムソンは、アメリカのナンバー1ポルノ女優だったそうです。
出演するポルノ作品は自分でプロデュースし、セックスシーン中心でなくドラマ性を重視したポルノ作品を製作していたといいます。
ジェナは、スティーブン・キングやシャーリーズ・セロンの大ファンなんですって。リベラリストの匂いがするわ。くんくん。
あ! そうそう! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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<公式サイト>
<関連書籍>
アンドレア・ドウォーキン『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』(寺沢みづほ訳)
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