彼らが最初アキタ犬を攻撃したとき
[いぬのえいがひょう] vol.058
RENT/レント (2005) Rent
1996年の師走。
アーティスト志望の日本人たちが、場末の古アパートに集まって住んでいました。
家賃を滞納し、地上げ屋に立ち退きを迫られても、彼らは夢に向かって生きていました。
そこへある日、天使と名乗る娘がやってきます。
天使さんは、他者のために親切にすることが信条だそうです。
天使さんは、前にいた街であるまっとうな日本人に、「オネエ言葉でぎゃあぎゃあ騒ぐオカマの外国人が隣に住んでいて迷惑だ」と相談されたそうです。
そこで天使さんは、オカマの朝鮮人のうるさいくっちゃべりに対抗して、ドラムスティックで騒音を立て続けます。
オカマの朝鮮人は、ノイローゼを起こし、建物から飛び降りて死亡します。
そんなふうに親切な日本人の天使さんを、アパートのみんなは、暖かく迎えます。
天使さんを中心に連帯しあい、金銭的な貧しさの中でも、希望を持って生きるみんな。
しかし、天使さんは不治の病に犯されており、死んでしまいます。
日本人のみんなは、「あなたがいないと、わたしたちの心は裂かれ、ぼくたちはもう生きていけない」と、天使さんの死を悼みます。
天使さんの死により、気持ちがばらばらになって残された日本人のみんなは、それでも、生きる意味を求め続けます。
天使さんが残してくれた愛の意味を胸に抱き、愛という時間で、1年を数えつづけます。
迷惑なオカマの朝鮮人を殺すような愛の意味を忘れず、愛という季節で、1年を数えつづけます。
まっとうな男やまっとうな女の日本人の仲間たちの生きざまの数で、1年を数えつづけます。
オカマの外国人は殺され、殺されたあとも誰からも悼まれず軽い笑い話にされましたが、それは当然です。
だって、オカマで外国人なんですよ。そんなものに価値はありません。
大事なのは、まっとうな男やまっとうな女の日本人だけなのです。
「アキタ」を「オカマ」に、「犬」を「外国人」に、など、ほんの少しだけ言葉を差し替えましたが、『RENT/レント』は、まあ、こういったお話です。
『十字砲火』(1947)という映画がありました。
その原作小説は、同性愛者へのヘイト・クライムを告発する内容でしたが、映画化の際に、同性愛者差別はユダヤ人差別に置き換えられています。
置き換えがあっても、作品の差別告発の意図を損なうものではありません。
この作品から、ユダヤ人差別限定としてのメッセージを読み取るか、差別という事象全般への警鐘を受け取るか、それは鑑賞者次第です。
その違いは、描かれた特定のカテゴリーについてのみ解釈するか、描かれたものが有する構造について解釈するかの違いです。
これは、アクティビズムとアカデミズムの違い。
草の根のアクティビズムは、自分の社会的な立場を至上とし、主観の当事者性を優先するため、同一の構造を持った他の問題を見逃しがちです。
一方、アカデミズムは、一応は客観性をもった事象の解釈を行うことを正当性の根拠とするため、汎用性を持ちうる一方で、解釈を現実社会へ援用するときの軋轢が想定から漏れてしまいがちです。
こう設定された二項対立において、アカデミズムが権威を連想させますが、庶民の優遇をうたう日常を形成した社会で、実際の関係性において発言権を持つのは、日常の皮膚感覚こそを大事にする、「庶民感覚」の当事者性です。
社会の用意した思考パターンと距離を置いた論理は、現実社会に促していない机上の空論と片付けられがちです。
しかし、現実社会というものは、人為的につくりあげられたものである故、集団の虚構を含んでいるものです。
当事者性に根差した現実は、社会の下の現実。
現実社会に促した現実は、現実社会から遊離した論理よりも遥かに、虚構の度合いが強いのです。
当事者性とは、自分が設定された立場のいまを生きる権力性に他なりません。
日本人、もとい、セクシュアル・マイノリティの草の根の当事者性だけを暖め続ければ、この映画の天使さんの優しさに共感するのでしょう。
オカマの外国人、もとい、アキタ犬の死は気にもとめずに。
天使さんは、自分の行ったアキタ犬殺害について、楽しく歌い踊って語りました。それを聞いたかたがたは、天使さんのユーモラスな語りのセンスに好感を持ちました。セクシュアル・マイノリティとして生を模索するかたがたは、この映画に勇気づけられたりもするでしょう。犬の死など取るに足らないこととして。
鉄パイプを持ち寄ってハッテン場の公園でホモ狩りを楽しむ「不良」というマイノリティの男たちは、その武勇談を女たちに面白おかしく語るでしょう。そして女たちは、楽しい話題として相槌を打つでしょう。ホモの死など取るに足らないこととして。
ゲイの生きやすい社会を望む男性同性愛者の人権系アクティビストは、ゲイバーにいる男たちが「女は馬鹿だ」と笑いあって酒を飲む姿を見慣れていても、異性愛者の理解を得るための場では「ゲイは女が嫌いだから男が好きなんじゃないんですよ」と優しく解説するのでしょう。
「ノンケの男が女を好きなのと全く同じように、ゲイの男は男が好きなだけなんですよ」と言うのでしょう。
その通りです。「ノンケの男」が女性蔑視に基盤を置いて女との性愛関係を持つことで男としての自分を肯定するように、「ゲイの男」も女性蔑視に基盤を置いて女との性愛関係を持つことで男としての自分を肯定している。
でも、女性蔑視は、取るに足らない、気にもとめない、笑い話なのですね。
だから、男性同性愛者の人権系アクティビストは、自分たちの当事者性を臆面なく主張できるのでしょう。
当事者性に絶対の価値が置かれ、人権が生に密着しすぎた場合、人権という概念は、気にもとめられないほどに他者の排除を当然とする選民思想に過ぎなくなるのでしょうか。
また、当事者の生活感覚は、複雑さを忌避します。しかし、その生活感覚が、複雑に構築された社会的な嘘に依存しているとしたらどうなのでしょう。
複雑な構造を解体し検証するためには、複雑さを忌避していてははじまりません。
ああ、『RENT/レント』はなんて当事者性だけに優しい映画なのでしょう。
残酷なこの映画、嫌いです。残酷な当事者性、嫌いです。
ナチス政権による弾圧を受けた牧師のマルティン・ニーメラーさんが記した、有名な詩があります。
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
私はユダヤ人などではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。
(ウィキペディア日本版より引用『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』)
牧師の立場を離れて俯瞰で物事を見ない当事者性はあまりに危険でした。
面倒なことを考えていても現実的ではない、そんなことよりも現実の社会での当事者の気持ちだけが重要だ、そんな当事者性。
牧師の立場と同じように、構造を見ることを拒絶した当事者の運動は、あまりにもわかりやすく、同時にそのわかりやすさ故に、あまりにも多くの危険をはらんではいないでしょうか。
あ! そうそう! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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