オレオレ詐欺 ハイハイ詐欺
[いぬのえいがひょう] vol.059
わが教え子、ヒトラー (2007)
Mein
Führer - Die wirklich wahrste Wahrheit über Adolf Hitler
1944年12月25日ドイツ。
支持が落ちていたナチス党の起死回生を図るべく、宣伝大臣ゲッベルスは翌年1月1日にヒトラーのパレードと演説を大々的に行い、それを映画に撮り全国で上映しようと計画します。
しかし、肝心のヒトラーは精神を病んで自信喪失しており、とても演説などできる状態ではありませんでした。
そこでゲッベルスは、5日間でヒトラーを再生させるための教師役を、かつてヒトラーに演説の発声法と呼吸法を指導したユダヤ人の俳優グリュンバウムに託すのです。
グリュンバウムは強制収容所から移送されてすぐに、ヒトラーの自信回復のための指南を行い、ヒトラーはグリュンバウムに全幅の信頼を寄せ、弱みをさらけだすようになります。
グリュンバウムはひそかにヒトラー暗殺の機会を待つのでしたが、情けない姿のヒトラーに同情さえ抱くようになってしまいます。
グリュンバウムは、ヒトラーへのアンビバレントな想いに引き裂かれます。
グリュンバウムを演じるのは、『善き人のためのソナタ』での、監視国家下で国家に忠誠を誓っていた国家保安省職員が自由の意味を知っていくヴィースラー大尉役が記憶に新しい、ウルリッヒ・ミューエ。
その繊細な演技によって、この作品に、ただコミカルなだけではない示唆をもたらしたミューエは、2007年7月、胃癌のため亡くなり、惜しくもこの作品が遺作になりました。
グリュンバウム以外の登場人物は、間が抜けていると言えるほど一面的に単純化されたキャラクター造型です。
ヒトラーは、小さな嫉妬と猜疑心で頭がいっぱいの卑屈な駄々っ子。
その場しのぎの手段ばかり積み重ねる頭の悪い取り巻き。
ユダヤ人たちは、全員がヒトラーへの憎しみを抱いています。
この映画は、あえてコミカルに戯画化することで「最も真実なヒトラーの正体」を描いたといいます。
ですから、この深みのない単純さは、意図されたものなのでしょう。
コメディとして、ファシズムのくだらなさを笑い飛ばそう、という意図です。
かつて、チャップリンが『独裁者』でヒトラーを戯画化してナチス批判したのと似た手法。
『独裁者』での、コミカルなシーンの筆頭は、ヒトラー似の独裁者ヒンケル風船の地球儀で遊ぶシーン。
チャップリンお得意の、手足をチャカチャカ動かすパントマイムとはまた違った、地球儀と踊って遊ぶだけで約3分。
飽きもせず踊れば踊るほど、間抜けさがかもしだされます。
コメディ映画の中で、たった一名のかたが間抜けなことを繰り返せば、可笑しさがかもしだされます。
『わが教え子、ヒトラー』でのそれは、「ハイル、ヒトラー」でした。
ナチス党の大臣たちは、誰かに出会う度に、右腕を斜め上にピンと伸ばし大袈裟な抑揚をつけて「ハイル・ヒトラー」。
道で、廊下で、「ハイル・ヒトラー」を連呼し続けます。
大勢が集まると、発する言葉は「ハイル・ヒトラー」ばかりで、会話もなかなか進みません。
観客には、ひとつの馬鹿げた言葉を何度も繰り返すコメディアンの芸を見たときのような笑いを引き起こし、「ハイル・ヒトラー」は、冗談になります。
現実社会の中で、大勢のかたが間抜けなことを繰り返せば、嘘を現実に変えてしまいます。
ナチスに支配されていた当時のドイツでのそれは、冗談ではなかったでしょう。
冗談を通り越した、タチが悪さ。
「毎日毎日、ハイルハイルうるさいんだよ!」だけでは済みません。
「ハイル・ヒトラー」は繰り返すことで、価値のないナチス党を価値をあるものと設定し続ける、詐欺の手段でした。
嘘を本当と思い込ませあう詐欺。馬鹿げています。
客観性をもって見れば、笑いの種です。
客観性という言葉は、「その時代のその社会の普通の視点」という意味で使われることが多いものです。
しかし、その用法は、客観性を欠いた視点を客観性と呼ぶことで、明らかに矛盾しています。
完全な嘘を本当のものと扱うための「ハイル・ヒトラー」と似たようなものです。
ここでは、客観性という言葉は字義通りに使います。
客観性とは、バイアスのかかっていない視点。立場に左右されない視点。
地球の文化を知らない宇宙生物の視点、という説明のされかたもあります。
客観性は、自由な視点の別名なのでしょう。
当時のドイツで、ナチスの被害者は、客観的な視点を持つことは出来なかったでしょう。
目の前に危険が迫っているというのに、客観性どころではありません。
「ハイル・ヒトラー」は冗談にはなりえません。
その社会で支配的な特定のイデオロギーを肯定する言葉を連呼することで、支配を強固にする。
効果的で卑怯なやり口です。
ナチス支配が終わった今なら、「ハイル・ヒトラー」はもう笑うこともできるでしょう。
けれど、そんなやり口は、今なお続いています。
日本在住の皆さんなら、性同一性一致男が自らを「俺」と言う現場を、見たことがあるでしょう。
「俺」とは、男性ジェンダーに同一化した者が、相手を社会的に目下か同等判断したときに使う一人称代名詞です。
まず、相手を目下と判断して使われる場合。
この一人称が使われるのは、相手が男でないものと判断した場合です。
男の支配を尊女卑イデオロギーの表明です。差別主義者です。
「俺」と言う、性同一性一致男は、ファシストです。
そして、相手を同等と判断して使われる場合。
この一人称が使われるのは、相手が男であると判断した場合です。
男ジェンダーへの忠誠を誓い続け、互いに男というイデオロギーの信奉者であることを確認しあい、仲間意識を持つのです。
「俺」と言う、性同一性一致男は、ファシストです。
支配的な特定のイデオロギーへの忠誠を誓う言葉。
「俺」は、「ハイル・ヒトラー」と同じ意図。どちらも、支配のための自他の洗脳を目的とする言葉です。
ナチズムという嘘が嘘と思われていなかった当時のドイツ社会で、日常的に「ハイル・ヒトラー」と言っていたナチス支持者の大部分は、そんなことは意識していなかったでしょう。
それを笑うどころか、不快に思うことすらなかったかもしれません。
男ジェンダーという嘘が嘘と思われていない現在の日本社会で、日常的に「俺」と言っている性同一性一致男の大部分は、そんなことは意識していないでしょう。
それを笑うどころか、不快に思うことすらないかもしれません。
ハイルハイル、いちいちうるさかったでしょうね。
当時のドイツでは、詐欺師たちが、ハイルハイル言い続けるだけで詐欺を詐欺と思わせない詐欺をはたらいていました。
オレオレ、いちいちうるさいですね。
現在の日本では、詐欺師たちが、俺俺言い続けるだけで詐欺を詐欺と思わせない詐欺をはたらいています。
男だの女だの、いちいちうるさいですね。
現在の日本では、詐欺師たちが、男だの女だのと言い続けるだけで詐欺を詐欺と思わせない詐欺をはたらいています。
『わが教え子、ヒトラー』での、グリュンバウム以外の登場人物の表層的で深みがない人物造型は、笑いの効果をもたらすだけではないのでしょう。
深みを装っている仮面を剥ぎ取るのが目的ならば、薄っぺらな描写になって当然です。
ナチスは、男は、女は、薄っぺらさを隠すための言葉の装いをたくさん施しているけれど、そうしなければならないほど、薄っぺらなのでしょう。
ナチスは大量虐殺を行いました。
そして、男や女というジェンダーというイデオロギーの信奉は、特に男ジェンダーの信奉が引き起こした虐殺件数は、数えてみるまでもなく、ナチスよりも遥かに多いでしょう。国家レベルでも、個人レベルでも。
映画の最後、現在のドイツの子供たちが、質問に答えた映像が流れます。
「ヒトラーって知ってる?」
ある子供が答えます。
「金髪と青い目が好きな人」
そう。ヒトラーは、好きな金髪と青い目が好きなだけだったのでしょう。
彼の好みは、当時のドイツのマジョリティの好みでした。
そして、マジョリティの考えで、社会の日常を支配したい、と行動したのがおかしかったのです。
「男って知ってる?」
答えましょう。
「男が好きな人」
面白い映画でしたが、納得いかない点もあります。
ヒトラーが、愛人エヴァとのセックスをするとき、勃起できなくて、ふにゃふにゃのペニスをお互いの腹部に挟んで抱きあいました。
グリュンバウムはそれを目撃し、後で勃起しないことを馬鹿にします。
ヒトラーのそのセックスの何が、馬鹿にされるようなことなのでしょう。
男の硬いペニスを女のヴァジャイナに挿入するセックスが望ましいという支配的な価値観。
ナチスの思想と同じく、それは支配的価値観の当然視という権力の濫用でしょう。
この映画の日本公開時のキャッチコピーは、「私が見たのは、狂気の独裁者ではない、ひとりの孤独な人間だった──」というものでした。
孤独な人間。
「ハイル・ヒトラー」を連呼する詐欺も、「俺」を連呼する詐欺も、どちらも、捏造した過剰な価値を「人間」という概念に付与する詐欺の一種なのでしょう。
そして、罪を償うこともなく、人間詐欺は続いています。
ヒトラーの愛犬の、ジャーマン・シェパードのブロンディさんは、伏せをしたヒトラーのお尻を前足で掴んで腰を振ります。
いつか笑える日が来るのを待つより、いま、笑いましょうか。笑うより、腰を振りましょうか。
あ! そうそう! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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いぬさんのお勧めの映画はどれも、おもしろそうなのに、映画を見る時間なんて全然ないよー!
ああ、なんて貧しい生活なのでしょう。
>「俺」と言う、性同一性一致男は、ファシストです。
性同一性一致男?
字面にくらくら来た。
「性」と「一」が2つずつあるし、「一」って、ここに入っていると、まるで横ボー、字に見えない!
さらに、この文章が二回!
さらに、くらくら。
さて、「性同一性一致男」で検索しても出てくるのは「性同一性障害」ばっかでした。
「「俺」と言う、FtM」は、きっと「自覚的な」ファシストなんだろうなぁ。
こんにちは、tibimamaさん。
コメントありがとう。
性同一性障害やトランスばかりが名付けられて、そうでない男や女が、何もくっつかないのは不公平ってもんじゃない?
性同一性障害やトランス以上に、造られたジェンダーをより多く身につけてるくせしてさ。
なので、「性同一性一致男」なんです。
一性一 ←性に串刺しにされた状態、なんつって。
>「「俺」と言う、FtM」は、きっと「自覚的な」ファシストなんだろうなぁ
うーん。即答できないことを。
自覚は、当事者が強いられたものなのか、望んだことなのか。
ゆっくり考えてみます。
おっと、いぬさんから、レス頂いちゃった、わーいわーい。
ども、うれしいです。
ありがとうー!
>一性一 ←性に串刺しにされた状態、なんつって。
ほんまやぁ。
>>「「俺」と言う、FtM」は、きっと「自覚的な」ファシストなんだろうなぁ
>
>うーん。即答できないことを。
>自覚は、当事者が強いられたものなのか、望んだことなのか。
>ゆっくり考えてみます。
いぬさん、ありがとう!!
いぬさんファンとしては、「ゆっくり考え」た結果をじっくり待ちたいところではありますが、いつもいつも手札を伏せたまま相手がオープンするのを待つのは卑怯(と、よく、わたしは同居人に言われるのです。)なので、1ミリだけ自己開示。
「自覚的な」は半分以上、皮肉で言っちゃいました。(スマヌ!)
「「俺」と言う、FtM」は、かなり無自覚に「俺」とか行ってるんじゃないの、って思いつつ、書いた言葉であります。
まあ、かなり偏見・思い込みもあると思います。
実際、わたしのまわりのトランスで一人称が「俺」は少数派なので、サンプル少ないです。
(まあ、MtFは「俺」使わないだろうし、FtMでとどまっている(?)ひと自体が、わたしのまわりでは少数派なんですけれどね。)
で、ちょっと、友人たちのことを、いろいろ思い起こしてみました。(まあ、この場合わたし自身は参考にならないと思われるので、友人たちを、「使わせて」もらっちゃうわけです。)
わたしの古い友人は、一人称「俺」FtMで、世にあるジェンダーバイアスを目いっぱい引き受けちゃってる感じなのですが、「自覚的なの?」って「?」が付きます。
パートナー(こちらも古い友人)の性同一性一致女(たぶん)との間にある、男尊女卑的な関係が、一緒にいるとちょっとしんどかったりして、意見したくなっている自分に気付くことも度々。
さらに、GID医療に関して、わたしの偏見・思い込みを語らせていただくなら、「無自覚に」ジェンダーを受け入れているトランスの方が、医療のレールに乗りやすいように思います。
(いやぁ、これが、本当に、わたしの偏見・思い込みだけだったらいいなぁ、と思います。)
tibimamaさん
こちらこそ、ありがとうございますー。
GID医療は、性同一性一致=支配的な性別観をおびやかさない範囲だと判断されたから、受け容れられたんでしょ。
だから、あくまでもGender Identity "Disorder"なんでしょうね。
身体の性と、性自認が一致しなかったからって全く問題なければ、他者との間で軋轢はあるにせよ、自分の内で"Disorder"にはならないでしょう。
身体感覚がFかMとしか感じ取れないという前提で、医療化されてますよね。
GIDっていう名前。
(意訳しちゃうけど)[Gender 社会規範によって設定れた性別]と[Identity 自我]のあいだの[Disorder 違和]ってことでしょう?
まずは社会が問題なのだと、名前自体が示唆していないかしら?
当事者にとっては、それどころじゃないんだろうけど、医療の目指す方向としてはね。
GID医療は、原因を解決しようとしていないよね。
ジェンダー・バイアスは、自覚的なら、あってもいいと思うの。
閉じた関係の中で納得ずくで「男尊女卑ごっこ」を楽しんでいるのなら、とやかく言われることはない。
あくまでもごっこ遊びだということは忘れずにね。
ただそれを、当たり前でそれでしか有り得ないものと扱って虚構だと自覚せずやられたら迷惑なのよね。
それから、FtMの「俺」。
その場合だと「俺」を使うことで得られる利益がMtMよりはるかに少ないのではないでしょうか。
「俺」信者の男や女たちからは、「俺」に相応しいと認められないでしょう?
当事者の想いは別にして、そんなことは誰にも認めなくていい、とあたしは思いますけれども。