あたたかい人間の心という危険
[いぬのえいがひょう] vol.061
メトロポリス
(1926) Metropolis
ベルリンで初めて公開されたバージョンの『メトロポリス』は3時間30分でしたが、その後、フリッツ・ラング監督自身の手で2時間30分に編集し直されました。
またその後、興行上の都合や検閲のため、世界各地でさまざまに編集しなおされ、更に第二次世界大戦時にオリジナルのフィルムが散失されてしまったため、現在、完全な形での映画はもう存在していません。
2001年に独ムルナウ財団が、世界各地のフィルムを集めて修復した約2時間のバージョンが2008年現在存在する、最も完全に近いかたちと言われています。(※注)
このバージョンでは、紛失された場面は字幕説明で補われ、更に冒頭と終幕に、以下の格言が挿入されます。これは、脚本を書いたテア・フォン・ハルボウが著した小説版『メトロポリス』にもある言葉です。
「頭脳と手の仲介は心でなければならない」
大都市メトロポリスは、支配階級と労働者階級とに二分された階級社会。
支配階級の人々は富に満ち溢れた地上に住み、日毎娯楽に興じ、労働者階級の人々は支配階級の贅沢な生活を支えるために地下深くの工場で肉体労働を強いられています。
ある日、メトロポリスの支配者ヨー・フレダーセンの息子フレダーが地上の楽園で遊んでいるところへ、地下世界からマリアという美女がみすぼらしい子供たちを連れて迷い込んできます。
「ごらん、あのかたがたも私たちの同胞なの」と子供たちに教え導くマリアの姿に、フレダーは魅了され、マリアの後を追います。
フレダーが初めて降りた地下世界で目撃したのは、連日の労働に疲れ果てた労働者たち。更に、事故による大惨事が起こりますが、多数の死傷者が運び出されると、また何事もなかったように工場は稼動はじめます。
フレダーは、父ヨーの元へ行き、労働者たちが過酷な条件下で働いていることを訴えますが、全く取り合いません。
地下に戻ったフレダーは、勤務中に過労のため倒れた労働者の11811号と入れ替わり、労働者たちに強いられた過酷な現状を、身をもって理解します。
一方、労働者たちが陰で不穏な計画を立てているらしいという情報を得たヨーは、彼の親友である科学者ロトヴァングと共に、地下墓地で行われている労働者たちの集会を目撃します。
そこではマリアがバベルの塔の逸話になぞらえた演説を行っていました。
マリアは、不満を募らせる労働者たちに時機を待つように説き、労働階級と支配階級とを結びつける仲介者の必要性を力説します。
この集会に居合わせたフレダーはマリアの演説に心を打たれ、自分が仲介者になるべきだと決意します。
その頃、ヨーは、ロトヴァングが開発中のロボットにマリアの姿を与え、ロボットに労働者たちを暴動に導くように依頼します。
それは、労働者たちに暴動を起こさせて鎮圧することで、より強固な支配を行うことに正当性を持たせるためでした。
ヨーとロトヴァングはかつて、ヘルという女性を巡って三角関係でしたが、ヘルはヨーを選びました。ヘルは、ヨーとの子供フレダーを産んですぐに死亡。
開発していたものはそもそも、ヘルの生まれ変わりとしてのロボット。
ヨーにはヘルの死に責任があると、ロトヴァングは内心憎しみを募らせていたのでした。
『メトロポリス』の映画史上、大掛かりな未来都市や地下工場、ロボットのマリアなどに見られる卓越したデザイン性と大規模なスペクタクル表現に関しての評価は一定していますが、描かれているテーマに関しての評価は時代ごとに著しい変化を見せています。
それは、「頭脳と手の仲介は心」という点に対する評価です。
映画では結局、フレダーを仲介者として、労働階級と支配階級が手をとりあうという希望が描かれます。
かつては、そのテーマ自体が現実的ではないという評価が多かったものでした。
フレダーのような仲介者は、社会の対立関係の中でそう簡単に受け入れられるものではないと。
後に米国のエリア・カザンの撮った『紳士協定』(1947)では、反ユダヤ主義について記事にするため、自らユダヤ人と偽って体験取材をするジャーナリストが描かれています。
『メトロポリス』の舞台を、現実のアメリカ社会に移したような設定です。
こちらの映画も反ユダヤ主義解消の希望を提示し楽観的に締めくくられますが、『メトロポリス』に対するような批判はまず聞いたことがありません。
この違いは、何故なのでしょう。
明らかな想像上の物語ならば無遠慮に批判できるけれど、現実に即した物語の場合は何らかの配慮が働くのでしょうか。
近年、散失していたフィルムが少しずつ発見され、修復が進み、全体像が想定できるようになると評価が変わり、現在では、フリッツ・ラングが監督この作品の前に描いた『ドクトル・マブゼ
』(1922)や『ニーベルンゲン
』(1923)の流れを汲んだ、神話的、寓話的な側面が重視されることが多くなったようです。
が、当のフリッツ・ラング自身は、後に『メトロポリス』をあまり好きではないと語っています。
ナチの宣伝大臣ゲッペルスはラングの『ニーベルンゲン』に心酔し、ヒトラーは『メトロポリス
』を観て感激し、ナチはユダヤ人のラングに対して、党の宣伝映画を撮るように依頼します。
ラングがそれを聞いてユダヤ人だと答えかけると、「ユダヤなのか決めるのは総統閣下だ」という返答。
その夜のうちにラングはフランス経由でアメリカへ亡命。その後アメリカで、『暗黒街の弾痕』(1937)、『マン・ハント』(1941)、『死刑執行人もまた死す
』(1943)など、ファシズムを批判する映画をいくつも撮ることになります。
一方、当時のラングの妻であり脚本を書いたテア・フォン・ハルボウは、熱心なナチの支援者でした。
何故、ナチ支持のハルボウと反ナチのラングが協力して、ひとつの権力に関する映画を造り上げたのでしょう。
ナチは、ファシズムのあらゆる宣伝手段を駆使したことで絶大な支持を得ました。
ナチがわざわざ網羅してくれたおかげで、歴史は戦後になって、ファシズムの手口がひとつにまとめられた「おそろしい悪のリスト」を手に入れることが出来たのです。
『メトロポリス』が製作された1924年はまだ、「おそろしい悪のリスト」が手に入る以前でした。
ナチが標榜したのは、ドイツ国民の、つまり、優良なドイツ国民と認める国民の、自由と平等です。
人々が互いに思いやって、支配階級も労働階級も仲良く平和に暮らせる平和な世界を築こう。
ここでいう「人々」はかなり限定された範囲ですが、目的はまさにこれでしょう。
「頭脳と手の仲介は心でなければならない」
お互いを思いやって築く平和な世界、もっと砕いて言えば、みんな仲良くしよう、ということ。
とてもあたたかな、優しさのすすめ。
それが恐怖支配を導くものだとは、思い難かったのでしょう。
しかし、無批判な「心」の肯定が、ファシズムを導き出したのです。
ナチの平和を望むハルボウの意思と、ナチに限らない平和を望むラングの意思は、作品の形にすると同じものになってしまいました。
みんな仲良くしよう。人間の心を忘れないで。これがファシズムの根幹。
人間愛に溢れた「心」の危険さを、ラングは、その後のドイツの顛末を見て、思い知ったのでしょう。
『メトロポリス』をラングは好きになれないと言う理由はそこにあると想像しました。
ファシズムがまず初めに誘惑するのは人間の心。
人間と人間のあたたかい繋がりだけが大事なこととし、距離を置いた批判を忘れてしまったとき、一旦心を掴まれたら、心は制御されるがまま。
頭脳と手のあいだの対話をなくし、対話のかわりに頭脳と手のあたたかい触れあいを導くのは、事実上、現状維持だけを願うもの。それは、おそろしい、あたたかみにあふれた人間の心。
やみくもな人間愛の危険さは、人間の歴史が幾度も証明しているでしょう。
せめて仲介者の心は、あたたかさの表面的な印象に惑わされることなく、冷徹さを持っていますように。
あ! そうそう! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
注:2008年ブエノスアイレスにて約25分間の未発見シーンのフィルムが発見されました。現在ドイツで修復作業中だそうです。2時間30分になる予定の修復版は、2010年のベルリン映画祭で上映される予定。また、独キノ社は、この修復版をブルーレイ・ディスクにてリリースすると発表しています。
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