恵まれし子らの自己責任
[いぬのえいがひょう]
vol.069
X-MEN2
(2003) X2
アメリカ、マーヴェル刊の人気コミック『X-MEN』の映画化の2作目です。『X-MEN』
は、シリーズを通して、世界各地で発生した超能力を持つミュータントたちと、人類の優位を信じて疑わずミュータントを見下し差別する人類との確執が描かれます。あくまでも、フィクションの設定です。
映画版『X-MEN』の1作目は、金属を自在に操る超能力を持つエリックが、子供時代にナチの絶滅収容所に収容されたエピソードからはじまります。
シリーズのはじめから、ナチの蛮行という現実と繋げることで、この映画の中で起こる出来事は、フィクションではあるものの、現実を反映させると宣言しているのでしょう。
エリックは、後にマグニートーと名乗り、ブラザーフッドという革命集団を統率することになります。
偏見を改める気配のない人類の蛮行の数々によって対話の可能性を諦め武力闘争による革命を志すようになったマグニートーは、マルコムXやチェ・ゲバラを彷彿とさせる、革命のリーダーです。
若かりし頃、エリックと共に差別解消の道を模索していたエグゼビア教授は、エリックと決別し、人類の社会からつまはじきにされたミュータントの保護と教育を行う「恵まれし子らの学園」を運営し、そこでは、支配者への武力に依らずにミュータント差別の解決を目指すX-MENのメンバーを養成しています。
差別問題の解決という共通の目的がありながら、そのための手段が異なるため、ブラザーフッドとX-MENは対立しています。
それが、人種差別の解消を平和的に目指したキング牧師とX-MENの異なるところ。
キング牧師は、マルコムXを攻撃したりはしませんでした。
傲慢な暴力支配を続け、その傲慢さをわかる気配もない人類へ、ひたすら「わかってほしい」と訴え続けるのが、X-MENのこころ。
とっくに「わかっている」ブラザーフッドへは、何故か、武力で対抗します。
社会悪への怒りに対しては暴力で、社会悪に対しては話し合いで。
X-MENには、そんな思想的なねじれがあります。
X-MENのエリート幹部であるストームさえ、「私は(人類への)哀れみなど、とっくに捨てたわ」と語ってしまうように、ねじれを自覚します。
X-MENの本拠地は学園ですので、ハイティーンの子供たちが多く登場します。
思春期の気持ちのねじれとX-MENの思想的なねじれが重なり合うことで、心理的葛藤をドラマティックに描ける効果があるのかもしれません。
『X-MEN2』では、冷気を操る超能力を持つ青年、アイスマンことボビーが、人間の家族に、自分がミュータントだということを告げます。
そのとき、それを聞いたボビーの母はボビーに、「普通の人間になれないの?」と勧めます。
身近な者が逸脱した特性の持ち主だとわかったとき、偏見を持つ人間の是非を問うことなど思い至らず、マジョリティに迎合することだけを望みます。
現実の世界において、支配的な思想からの逸脱者や性の規範からの逸脱者の身の回りで、頻繁に見られる光景です。
それは、たいていは思春期に目覚める、普通ではない特性。
その特性は、矯正されるべきものと扱われ、その持ち主は、社会生活から排除される。
排除する者が、自他から罪を問われることは滅多になく、排除の暴力性にさえひろく共感を得られる。
1作目の冒頭で宣言された現実との接合の意思は、たとえばこの場面のように映画の随所に浸透おり、現実から映画へ、映画から現実へ繋がっていきます。
『X-MEN2』では、ストライカーという人間の煽動により、ミュータントの排除・弾圧が激化した中、マグニートーの提案により、ブラザーフッドとX-MENは共に闘うことになります。
マグニートーと共に革命を画策するミスティークは、赤い髪に黄色い目を持ち、全身が青い鱗で覆われた姿で、どんな姿にでも変身できるミュータント。
青い皮膚に尖った尻尾を持った悪魔のような外見から、好奇の目に晒されてきたカートが、ミスティークに尋ねます。
「君は誰の姿にでもなれるんだって? 声まで? ならいつも姿を変えてたらいいのに。普通の人間に」
ミスティークは即答します。「私たちにそんな必要はないわ」
ミスティークは、自己を偽ることを間違っていると言っているのではありません。
しかし、普通である必要はないのです。
普通の人間のふりをしていれば安全です。
普通の人間のふりをしていれば、責任を問われません。
カートの質問は、普通という権力に迎合することは当然の必要で、可能なのにそうしない選択をする者は、弾圧されて当然という考えが蔓延していることを示しています。
自己の利益のために安全圏を選択すること。
人間のふりをするということは、責任を取らなくていいとされた安全圏に身を置くことなのです。
日本では、2004年イラクでの日本国籍のかたが人質に取られた事件や、2008年末に「派遣切り」問題では、自己責任論が語られることがありました。
イラクに行かない選択も出来たのに、行ったのは、行った者に責任がある。
派遣労働をしない選択も出来たのに、派遣労働をしている者に責任がある。
権力に庇護される安全圏にいない選択は、間違った選択であるという判断です。
その安全圏が、選択できない者への抑圧によって成り立っていることから目を逸らし、安全圏にいることの是非を決して問わない態度です。
安全圏にいることは必要だと、疑いもしません。
ミスティークはそれに対してはっきり「必要ない」と言っているのです。
カミングアウトをしないことは、自分を偽っているだけではありません。
普通という安全圏に身を置きたがるということなのです。
普通でありたがることは何故悪くないと言えるのでしょう。
差別への貢献やファシズムへの貢献が悪いことであるならば、普通でありたがることは悪いでしょう。
普通という権力の範囲内で経験を積むほど、視野は狭まっていきます。
それしか道は有り得ないと思い込むようになっていきます。
ミスティークが偏見の目を向けられることは、自己責任と呼ばれるでしょう。
差別を煽動したストライカーは、映画の終盤で、X-MENのウルヴァリンやマグニートーに見捨てられ処刑されますが、それは、自己責任とは語られないでしょう。
フランスの民衆の犠牲の上に贅沢三昧をして処刑された、マリー・アントワネット。
ウガンダで恐怖政治を行ったことにより失脚して亡命したイディ・アミン。
真面目に上司に媚びて働き続けながら、家庭内で威張りちらして支配し続けたサラリーマンの男が、妻や子から離別を言い渡されること。
マジョリティであること。
これらは、自己責任とは語られないのでしょう。
夜間のハッテン公園で、性的に活発な男性同性愛者が、ホモ狩りの被害に遭うこと。
性的に活発な女性が性暴力の被害に遭うこと。
マイノリティであること。
これらは、自己責任と語られるのでしょう。
見た目から既に普通の人間とは違うカートの場合は、自業自得とは言えません。
そのように、現実のこの社会で自己責任と語られる、それ以外の選択ができない事情があったかもしれません。
マリー・アントワネット。イディ・アミン。威張るサラリーマン男。マジョリティ。
彼らは、罪を糾弾されたとしても、聞く耳を全く持たず封殺するでしょう。
封殺できなかったら、生活をしていくために仕方なかった、と言うでしょう。
安全圏を選択することが、傲慢な権力だということをわかっていません。
そもそも、彼らがいう「生活」など「必要ない」のです。
もし、彼らが貧窮するときがきたら、自己責任論は彼らにこそ相応しいのです。
自己責任とは、ある規範に沿わない行いによって不利益を被ること。
自己責任論は、規範に沿うという権力に媚びなかったことへの攻撃です。
自己責任論を振りかざすのが妥当なのは、他の選択も可能だったのにそうしなかったことが、全くもって明らかな場合です。
権力を持つことは不可能な場合があります。
しかし、権力を手放すことは、いつでも可能なのです。
だからこそ、ミスティークは、常にカミングアウトし続けます。
X-MEN一派は、対人間社会向けに、「X-MEN」を「恵まれし子らの学園」と偽ります。
それは、圧力に負けて、姿を偽ることは仕方がないという憐憫なのでしょうか。
ボビーにミュータントであることをカミングアウトされたボビーの母は、その問題を「ミュータント問題」と語ります。
それに対し、その場にいたミュータントのウルヴァリンは、「ミュータント問題?」と一言だけで、マイノリティ問題は、マジョリティがマジョリティであることに価値を置くことの問題だと示唆します。
責任の所在は、権力を選択する者にあると。
カミングアウトをすることは、権力からの保護を放棄する選択。
カミングアウトをしないことは、権力からの保護を受けることの選択。
しかし、カミングアウトをする責任は問われ、カミングアウトをしない責任は回避され、更に、その責任回避を可能にしているのは、抑圧する者の権力です。
弱者の擁護は、弱者を装った傲慢な権力者をも擁護してしまうことにもなるのでしょうか。
ミスティークはそこに意識的だからこそ、「必要ない」と答えたのでしょう。
あ! そうそう! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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ども、tibimamaです。
いぬさん、またまた面白い映画評をありがとう。
いつも見ない映画を紹介していただいて、楽しく読ませていただいております。(だからって、その映画を見よう、と思うわけではなく、映画評だけで、わりと満足してしまっているんです。いつものことながら、「う~~ん、映画を見る体力も時間も作れないわたしの生活が貧しいなぁ。」とも、思っちゃうのでありました。)
さて、
>自己責任論は、規範に沿うという権力に媚びなかったことへの攻撃です。
なるほど、明快なる解説に感謝!
ああ、まったくもってそうですね。
>自己責任論を振りかざすのが妥当なのは、他の選択も可能だったのにそうしなかったことが、全くもって明らかな場合です。
はい、またまた明快。
ただ、「他の選択も可能」なのかどうか、考え込んでしまった。
というのも、なんの疑問もなく「普通」を選択してしまうようなひとたちには、基本的にその能力が欠けている気がするからなのです。(それでも「責任」は、明確に「そこ(そちら側)」にあるけれど。)
「普通を疑うことすらしない無神経さ」とか、言っちゃいたくなるけど(そして、言っていいと思うけど)、その無神経さは、「無知」や「無能力」から来ていると思う。
だから、「誰か」が「知識」を与えたり、「能力」を開発したりしないことには、変化があんまり期待できないような気がする。
で、その「誰か」って誰? 日々「普通」に抑圧され、「自己責任論」に攻撃されているひとが、その「誰か」にならなくてはいけないの? それって不公平、ってぷんぷんしちゃいますけど、「しかたない」の? なんてグルグル思っちゃいました。
>ボビーにミュータントであることをカミングアウトされたボビーの母は、その問題を「ミュータント問題」と語ります。
>
>それに対し、その場にいたミュータントのウルヴァリンは、「ミュータント問題?」と一言だけで、マイノリティ問題は、マジョリティがマジョリティであることに価値を置くことの問題だと示唆します。
そう、「ミュータント問題?」と、反論し続けたい!
でもでも、「「ミュータント問題?」と一言だけ」では、一番その言葉を投げつけたい相手ほど、まったく理解するする能力に欠けていることを思わざるを得ないのです。ああ、グルグル。
>tibimamaさん
はじめまして。X-Menが好きな読者です。
>だから、「誰か」が「知識」を与えたり、「能力」を開発したりしないことには、変化があんまり期待できないような気がする。
マグニートーさんは「我々を治療するだと?我々が治療薬だ」みたいなコトをおっしゃってます。「マイノリティの存在そのものが多数派帰属の治療薬だ」って解釈でその通りだと思います。
だけど、このマグニートさんは治療どころか全人類を抹殺しようとしてしまうので、その辺から思想的について行けませんでした。
>いぬさん
>X-MEN一派は、対人間社会向けに、「X-MEN」を「恵まれし子らの学園」と偽ります。
思想ではこの-MEN一派に同意できないんだけど、でも、ミュータントが人類に貢献する事で、マジョリティに合迎するフリして、多様性の尊重や平等を謳いながらも、その実、ミュータントの存在や意見を無視できない実質的なミュータント優位主義を作っちゃったら、それも上手い革命と思います。
現実の例でエイズ問題のノウハウをゲイコミュニティーが社会にフィールドバックしたり、最近では鬱の自殺。デルタGのシングル者のコラボテックハウスの特集も、ヘテロの友達に見せたら興味深くチェックしてたんです。「結婚して子供に老後を見てもらうのが当たり前」な普通に育った方には考える事ができないテーマなんでしょう。
最近、マイノリティの視点をウリに社会に貢献して共存を目指すフリして、その実、治療しつつ、依存させる事で、優位性の逆転は可能なんぢゃないかな?って気がしてきてます。
ちゃんさん、コメントどうもありがとうございます。
とても、うれしいです。
さて、
>マグニートーさんは「我々を治療するだと?我々が治療薬だ」みたいなコトをおっしゃってます。「マイノリティの存在そのものが多数派帰属の治療薬だ」って解釈でその通りだと思います。
ふむふむ、なるほど。
どこかにぼんやりマイノリティが存在していても、変化には役立つとは思えませんが、直接話をする機会が多くなれば、変化はあるでしょうね。
「生きてる図書館」の活動とか、参考になりますね。
http://dic.yahoo.co.jp/newword?index=2008000475&ref=1
*ただ、その場合も、マイノリティが多くのコスト(たとえば、カミングアウトすることだって、負担大きいですよね。)を払って活動しなきゃいけないの、なんて、わたしの中に「グルグル」感が残っちゃってますが、・・・。
>最近、マイノリティの視点をウリに社会に貢献して共存を目指すフリして、その実、治療しつつ、依存させる事で、優位性の逆転は可能なんぢゃないかな?って気がしてきてます。
え、逆転しちゃうの?
『動物農場』みたい。
http://www.delta-g.org/news/2009/01/post-249.html
わたしにとっての革命の成功は、「優位性の逆転」ではなく、「優位性」という概念の消滅、ですね。
はい、逆転の数十倍難解な目標ですが。
>tibimamaさん
コメントありがとうございますー。
知的階級と呼ばれる優位性に従うことが望まれる社会。
懸命に生きている一般庶民という優位性に従うことが望まれる社会。
自己責任論は、後者において起こるんですよね。
後者の優位性は、優位性とは扱われないからたちが悪い。
前者の知的階級が、柔軟な自己修正も可能な本当に聡明な知を持っているならば、問題はないはず。
それが(共産主義ではない)社会主義だったのでしょうか。
けれどそれは上手くいきにくかったのですね。
>「優位性」という概念の消滅
普通を疑うことすらしない無能力、を考えると。
その無能力さを優位性と信じることこそが劣等の証、とも思えちゃいますね。
>ちゃんさん
こんにちはー。
ミュータントの在り方が人類より優れているならば、それもありですねえ。
ただ、理解者ですら、当事者ですら、いざというときは間違っていると知りながら寝返る。
そしてその寝返りは、すぐに理解を得られる。
映画版X-MENで言うなら、『3』のローグの行った選択がそうですよね。
黒人はリズム感がある、みたいにある部分で白人より優位だという認識が行き渡る。
リズム感の劣る黒人はどうなのでしょうね。
ビアンらしさ、ゲイらしさ、トランスらしさが出来あがって、そこから漏れる者が出てくる。
優位性として理解が行き渡ったとしたら、その優位性の条件から漏れる者は、差別されてもいい例外となってしまわな
いかとも危惧します。
なので、「スタンダードでない」ということ自体を優位性にしていくと思います。
>マグニートーさんは「我々を治療するだと?我々が治療薬だ」みたいなコトをおっしゃってます。「マイノリティの
存在そのものが多数派帰属の治療薬だ」って解釈でその通りだと思います。
>だけど、このマグニートさんは治療どころか全人類を抹殺しようとしてしまうので、その辺から思想的について行け
ませんでした。
ちょっとマグさんをかばってみる。
(映画版の)マグさんは。
1 人類がミュータント規制法案を遂行(未遂) → 規制法案を潰す
2 人類が全ミュータント抹殺計画を遂行(未遂) → それに全人類抹殺計画(未遂)
3 人類がミュータント強制治療を遂行(未遂) → 我々が治療薬だ → ミュータント治療薬生成施設の破壊
放っといては莫大な被害をもたらすことに対してだけ地道に抵抗しているように思えますが、いかかでしょう?