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『男子であること Boy I Am』を観てきた。

2009年6月22日 13:00 ミヤマアキラ
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梅雨ど真ん中の季節に狭いハコのなかにすし詰めされるのは勘弁願いたいです。

上映イベントの概要はこちら。今日のは長いですよ。




●映画への集中力を損なう要因が多すぎ

観客動員想定してなさすぎ。ここのハコの適正キャパはせいぜい3040人だと思う。実際には倍ぐらい来ていたんじゃなかろうか。とにかく来たお客は全部入れちゃえ的な場当たり対応では、映画を鑑賞するにはどんどん劣悪な環境をつくっていくようなものである。

 

そして実際、劣悪な環境であった。椅子席についたはいいが字幕がぜんぜん見えない。しかたがないので立って鑑賞。場内は梅雨と人ごみのため湿度も温度も不快指数マックス。冷房のそばのひとたちは寒さに震え、冷房から遠いひとたちは暑さにうだる始末。わたしは後者グループで、こめかみや首筋から垂れる汗が不快であった。

 

後半にさしかかったころ、椅子に座ったまま頭を後ろにガクッと垂れて気絶する観客あり。すぐに意識を取り戻して大事にはならなかったが、この環境じゃ気絶してもしかたがないって。おかげでさらに映画から気がそがれる。

 

ただでさえドキュメンタリー映画は、製作された背景事情をある程度把握していないと、なにが描かれているのか把握しにくいし、何をどう観ていいのかわかりにくい。さらに、インタビューがメインのこの作品は、文字情報が多すぎて字幕を追うのもおぼつかない(しかも、「マーガレット・サンジェル」って誰だよ? マーガレット・サンガーじゃないの? ここで字幕に対する信用度がぐっと落ちる)。

 

 

●『男子であること Boy I Am』の背景事情

大雑把に言うと、アメリカにおけるトランスジェンダーの政治(ポリティクス)は、第二波フェミニズムからの排除によって逆説的に培われてきた。女性解放運動を拡大するために女性同士の連帯(シスターフッド)の重要性が唱えられたが、連帯から取りこぼされる者たちがいたということ。それがレズビアン(特にブッチ)とトランスジェンダーである。このへんの流れは、パトリック・カリフィア『セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学』 でだいたい追える。映画にはハルバーシュタムがインタビューに答えていたが、カリフィアは登場しなかった(『セックス・チェンジズ』の一部が引用されたのみ)。残念。

 

で、この作品の紹介文を訳してみた。

 

***

 

FtMトランスジェンダーの体験を描いたほとんどの映画は、ある重要なテーマの探求にめったに触れてこなかったが、この長編ドキュメンタリーは 同じ  トピックを扱ったほかの映画とは一線を画す。この画期的な映画は、FtMの性別移行をせいぜい“流行”であるとか、ひどい場合には男性特権に与ろうとする反フェミニスト的行為であるという見方をするフェミニストやレズビアン・コミュニティの示す抵抗に取り組みながら、レズビアンおよびフェミニストと、トランスジェンダーコミュニティ間の対話を開くと同時に、一般の観客に向けてトランスジェンダーの課題への理解を促す。

 

映画では、性別移行中の若い3人のFtM——ニコ、ノリエ、キーガン——が、自分の身体との関係、フェミニズム、人種および階級とトランスジェンダー・アイデンティティの交差からくるあらゆることを論じながら、それぞれの移行における大きな転機にさしかかる。かれらの物語は、よく議論される疑問や課題(それらはクィアとフェミニストのコミュニティで持ち上がるけれどもオープンにはめったに議論されない)を取り上げるレズビアン、活動家、理論家のインタビューをあいだにはさむ形でちりばめられている。これらの闘いと物語を、クィアとフェミニストの闘いと密接不可分にリンクしたものと位置づけ、『Boy I Am』は、クィアの抵抗についての勇気づけられる年代記を描き、アクティヴィズムとは何か、アイデンティティとは何かということを再考するようすべての観客に挑む。

 

***

 

ほらね。トランスジェンダーとフェミニズムって密接に絡んでるでしょ。

 

しかし、わたしはどうもこの映画があの3人のFtMを手放しに応援しているようには思えなかった。「ホルモン打って胸をとればすべてバラ色」なのか? レズビアン、活動家、理論家のインタビューのうちのいくつかは、かれらへの警告であるようにも見える(しかしそれらは3人には届かないという皮肉なのか?)。

 

それは、テストステロンを用い、乳房除去手術を果たしたカリフィアの、『セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学』 第二版における序文の一節が、とても誠実だと感じるせいかもしれない。

 

 ところで、実のところ、わたしは知らないのだ——そして、絶対に知ることはないだろう——男性であるということがどんなものかを。わたしはおそらく、通用(パス)している女性-男性トランスセクシュアルであり続ける。わたしは男性に生まれたかったのだろうか? 毎日、この疑問に突き当たる。もしトランスセクシュアリティのすべての痕跡を消し去ることができ、完全に男性として生活できるなら、わたしはそうするだろうか? 多くのトランスセクシュアルがイエスと即答することは知っている。しかしわたしは、この<大いなるジェンダー分割線>にとどまり、苦くはあるが貴重な何かを見続ける。この眺めは、危険なほどの高みからではあるが、心躍る愉快なものだ。共感とは、常に孤独から生まれるものだ。

 

(ちなみに、もしわたしがホルモン投与を受けて乳房除去手術を行ったら、そのときには堂々と「わたしは女です。レズビアンです」と言ってみたいものである。いまのところやる気はないが)

 

●フェミニズム/レズビアニズムとFtMの分断

ただ、日本の場合は事情がかなり異なる。フェミニズムやレズビアンのコミュニティではMtFの受け入れがなされているけれども、FtMに関してはそうではない。フェミニズムには男性やMtFの研究者、理論家はいるが、FtMはおそらくひとりもいない。レズビアン・コミュニティに関しては、「男性自認」を持つトランスを歓迎するのは、フェミニズム色があまりついていないところだと思われる。「男になりたい」FtMが女の運動に関心を持つとは考えにくいし、むしろネイティブ男性以上に「一緒にされたくない」と拒絶するかもしれない。ネイティブ女性にだってフェミニズムにまったく興味を示さない向きもある。レズビアンでもトランスでもフェミニズムにいまだ出会っていないひとはたくさんいる。

 

しかし、上映後の司会者+ゲスト2人のトークでは、1人は「フェミニスト」を自認していて、1人は「大学院でジェンダーを研究している」と言っていた。それで、「胸をとりたい」とか「男になりたい」とか「なりたくない」という話になるの? 自分語りをするモニョリ場は必要だと思うし、自分語りをするのは一向にかまわないけれども、それって別に今回の上映作品をふまえなくてもいいんじゃないの? 司会者はこの映画を3回観ていて、いずれも「胸をとるのは素晴らしいことだ」という感慨を抱いたそうで。3回観てもなおそういう素朴な感想にとどまっているのは、「フェミニスト」を自認するわりにとてもナイーブな反応だなと思うし、あの映画の後につづくものとしては、いささか退行的な語りだったと思う。映画とアフタートークの分断は、まさしく、日本におけるフェミニズム/レズビアニズムとFtMトランスジェンダリズムの分断を指し示しているということか。

 

だが、そもそもパフナイト(サイトはすでに削除されている)と銘打たれたこのイベントは、始まりはレズビアンたちの手によって運営されていた。いま現在、スタッフのなかにレズビアンがいるのかどうかはわからないが、少なくとも今回の司会者は、初代スタッフたちがつくりあげてきたパフナイトに観客として幾度も参加し、その後運営スタッフとなり、レズビアンでありフェミニストでもあるスタッフたちがつくってきたパフナイトという場の恩恵にあずかっていたはずだ。しかし、自分がいま位置している場の奇跡的とも言える歴史性について触れることはなかった。

 

また、司会者はアフタートークの冒頭で、「映画のなかに意味のわからない言葉がたくさん出てきたと思うので、解説が必要ですね」みたいなことを言ったが、そこで取り上げたのは「ブッチ、ダイク、フェミ」だった。しかも、解説はスタッフ外の人に丸投げで、結局満足のいく説明などひとつも得られない。行き当たりばったりの進行である。この作品を3回も観たのなら、単なる用語説明にとどまらず、上記に挙げたような映画製作の背景事情をこそ解説すべきではなかったのか。この映画を通じて観客たちとなにをシェアしたかったのか、まったくわからなかった。なんて安直な企画だろうとがっかりした。

 

 

●「ナベシャツもぶち込みたかった」だと?

トークする3人のうち2人は、ナベシャツの失敗体験について語った。1人は「背中がバリバリに凝って痛い。私はいつまでナベシャツを着つづけるんだろう?」と嘆き、もう1人は「息苦しいわりに胸がちゃんと潰れている気がしない」と言った。どこのメーカーのナベシャツをどういうプロセスを経て購入したのか知らないが、試着の有無にかかわらず、サイズの合わないものを、適正な着用法も知らずにつけているとしか思えない。要するに「買い物に失敗した」というだけの話である。

 

ちなみにわたしは先月、アジアンドラッグにてナベシャツを新調した。もちろん試着して着心地を試したし、身体に無理のかからない着用法も教わった。おかげで苦しくもならず身体も痛くならず、不満もなく、快適なナベシャツライフを送っている。

 

後者は、70年代のアメリカのとある公園でフェミニストたちがブラジャーを焼いている写真だか映像だかを見たことがあり、「あの(炎の)なかにナベシャツもぶち込みたい」と言ったが、彼女たちがブラジャーを焼いたのは、サイズが合わなくて身体が苦しいからという理由ではなかったはずである。自分たちの買い物の下手さ加減を棚に上げてナベシャツの存在そのものをdisろうとするのはあまりにも横暴というもの。かの国では、サイズの合わない超スリムなジーパンを無理矢理履いて死亡した人がいるが、だからといって「あのなかにジーパンをぶち込みたい」とはならないだろうし、「私はいつまでジーパンを履きつづけるんだろう」ともならないはずである。

 

たかだか数千円のナベシャツひとつ満足に買えないのに、乳房除去手術という大きな買い物に乗り出して大丈夫なの? と、オバチャンは心配である。だいたい、「胸をとりたい」という「気分」が2人のあいだに漂っているだけで、性別移行をしたFtMの観客がコメントしたときに、「胸をとること」についてなにか(医療的なものだけではない)情報を得ようという意欲も見られなかった(スクリーンのなかの人物ではなく、目の前にいる生きたリソースだというのに!)。「胸とりたい胸とりたい」ってぼやいているだけである。このうちの1人は以前、「ナベシャツで解放されるなんて嘘だ」と嘆いていたが、ということはそれまで「ナベシャツで解放される」とベタに信じていたんだろうか。かれらの関心が「胸をとること」に集中している現在、老婆心から言わせてもらえば、「胸をとることで解放されるなんて嘘だ」と後悔しないことをただ祈るばかりである。

 

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