個人的なことは政治的なことである
[名言・妄言 寄せ集め]vol.3
個人的なことは政治的なことである
フェミニズムの有名な言葉である。
フェミニズムは、「自然なこと」や「個人的なこと」と見なされきた男女の関係性が、実は歴史的・構造的に不均衡な権力関係を内包していることを明らかにしてきた。女性たちは「自分だけが苦しいのかと思っていたら、その苦しみには共通点(家父長制)があったのね」と気づいたのである。家事という名の無償労働も、愛情という名のDVも、男性中心社会であるがゆえに多発しているのだ。
翻って、我々セクシュアルマイノリティはどうか。
これもまた異性愛中心社会の被抑圧者である。
「え? 私、そんなに“抑圧”されているなんて思わないよ。みんな受け容れてくれるし」という御仁もおられようが、そもそも「受け容れてくれる」と考える時点で負い目がある表れであって、この社会で不自由せず暮らせる異性愛者との間には、大きな溝があることに気づくべきであろう。
マサキチトセさんのブログで紹介されていた「異性愛特権リスト」は鋭い。
以下、抜粋。
「雑誌を手に取ったり、映画やテレビ番組を見たり、劇場に行ったり音楽を演奏したりするとき、自分の性的指向が表現されているだろうという確信がある」
「全ての異性愛者を代表して意見を聞かれることはない」
「異性愛者と呼ばれずに何ヶ月も過ごせるし、悪意を持って異性愛者と呼ばれることはない」
「パートナーと公の場で手をつないだり、空港でキスをしてお別れをしたりしても、ジロジロ見られたり、ヒソヒソ話をされたり、罵倒されたり暴行を受けたりしない」
「自分が他の人へ持つ恋愛感情は、普通でまともだと信じて育って来ている」
仕事の同僚たちに自分のセクシュアリティ(性に関する事柄)を話すことを心配しなくとも、みんな自分のことを異性愛者だと思ってくれている」
自らのセクシュアリティを隠さない限りは、私たちの生活の一つ一つについて、政治の仕組みや社会の仕組みが付いて回る。
人を好きになることに引け目を感じ、町中で手をつなぐことにためらいを感じ、将来の話をする時はため息をもらし、職場では異性愛者の仮面を被り、結婚しないのかと聞かれ笑ってごまかし…。
私たちは、自分たちの望む暮らしを希望しても、政治や社会の仕組みがそれを許さないのだ。
しかし、政治や社会の仕組みは、人間が作るものだ。政治や社会を変えれば、人々の意識もきっと変わっていく。私たちの生活も良くなっていく。
もし学校の教科書に、女同士の恋愛が肯定的に描かれていたら、私の青春はもっと明るかったのかもしれない。
・・・と、振り返ってみる。
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風刺イラスト、素敵ですね。
見ず、聞かず、黙っていることは、それだけで政治的なのですね。
その環境に対して無批判に迎合するという政治的な意思を物語っているのでしょう。
「個人的なことは政治的である」という言い方が定着してきましたが、それよりももっと強調して、「個人的なことこそがより政治的である」とまで言えるのでは?と思いました。
社会の在り方に対するアプローチを政治と呼ぶなら、社会は個々の成員の現実認識が寄り集まって造り上げている以上、狭議で政治的と呼ばれる思想や活動よりもむしろ政治と扱われないもののほうが、より政治的なのではないでしょうか?
異性愛に限らずマジョリティの特権は何よりもまず、それが政治と扱われないことだと思います。
ただ、読んでいて一点、腑に落ちなかった点がありました。
>しかし、政治や社会の仕組みは、人間が作るものだ。政治や社会を変えれば、人々の意識もきっと変わっていく。私たちの生活も良くなっていく。
政治や社会にあわせて意識をころころ変えてしまう人が、政治や社会を形造っている。。。
そんなふうに、そのときの主流の政治や社会に合わせて意識が変える人こそが、見ず、聞かず、黙っている、政治的だと扱われない特権を享受している人ですよね?
それを考えるとまるで、政治や社会の変革に期待するのは、特権の享受している人を肯定しているか肯定まではいかなくても容認しているように思えてしまいました。
その点が「異性愛特権リスト」の鋭さを弱めてる感じがして、私は少し寂しい気持ちになりました。
壱花花さんの名言・妄言、とても面白く考えさせられます。
今のところ「名言」で続いていますが、「妄言」はどんな言葉を紹介してくださるか想像もつかないです。
「名言」はもちろん、「妄言」編も楽しみです。
ごめんなさい、何度読んでも「政治や社会の変革に期待するのは、特権の享受している人を肯定しているか肯定まではいかなくても容認しているように思えてしまいました」の仰ることがわかりません…。反発ではなく、自分の読解力の問題です。
>しかし、政治や社会の仕組みは、人間が作るものだ。政治や社会を変えれば、人々の意識もきっと変わっていく。私たちの生活も良くなっていく。
↑
この一文は、特に「教育」を想定して書いたものです。教育は社会制度の重要な要素で、政治によって内容が大きく左右されます。
私の育った時代は、教科書の内容は「異性愛・結婚制度・家族」がベースの価値観として在りました。
子どもの頃は教科書に書いてあることを信じるわけですから、その枠組みから外れている自分の居場所は、なかなか見つけにくいものです。
壱花花さま
ご返答、ありがとうございます。
「特権の享受している人」は「特権を享受している人」の書き間違いでした。
マジョリティであるという特権を持つ者が、政治や社会の在り方を規定します。
彼らは、政治や社会に基づいた教育を行う特権も持っています。
教育内容だけを変革しても、それはすぐに撤回されます。
例えば最近でも、数年前のジェンダーフリー教育の推進が教育の内容を左右する特権の持ち主たちから反発を買い、うまくいきませんでしたよね。
既存のジェンダーに一致している「権利」を奪うのかという反発。
それに対し、ジェンダーフリー教育を掲げた方々は、それぞれが自由に選択できる社会を求めているのであって、マジョリティである自由を損なうものではないと表明していました。
けれど、マジョリティのその「権利」とは、当然の権利ではなく、異性愛特権リストにあるような特権を享受することなんですよね。
そして、マジョリティが特権を享受することが、マイノリティへの差別を作り出す。
政治や社会だけの変革というより、特権を持つ者の意識を改革すること、または、現在教育を決定する特権を持つ者から特権を奪い取ること。
それでしか、教育の変革は為されないのではないかと思うのです。
そんなことを言いたかったのですが、説明不足でした。ごめんなさい。
>教育は社会制度の重要な要素で、政治によって内容が大きく左右されます。
その通りだと思います。
>私の育った時代は、教科書の内容は「異性愛・結婚制度・家族」がベースの価値観として在りました。
現在もそうですね。
>子どもの頃は教科書に書いてあることを信じるわけですから、
権威を疑う気がない子どもたちはそうでしょう。そんなかたが多いのも確かでしょう。
権威を疑わず権威に迎合すると、多くの大人たちから「いい子だね」と言われ、同年代の子どもたちからも受け入れられるのです。
特権を得ようとする、利己的な子ども。
学校教育を受ける年齢以上の子どもたちの殆どは、行動を自ら選択できるだけの自我が確立していると私は考えます。
近代社会では未成年には責任能力がないとされますが、彼らは自ら権威主義を選択しているのではないでしょうか。
>その枠組みから外れている自分の居場所は、なかなか見つけにくいものです。
その時代の主流である考えを身に付けて、居場所を得る子どもたち。
その時代の主流である考えと折り合いがつかなくて、居場所がない子どもたち。
居場所がある、とは、誰かと自分が同じであることを確認することによって数の力の権力を得ること。
そう言っていいと思います。
子どもたちの間でのいじめはよくあることです。
居場所をあること自体が、特権なのだと思いますが。
もちろん、社会や制度や教育の変革が無意味だと言いたいのではありません。
ただ、それだけでは、変革は効を奏さないと思うのです。
空気を読んで言葉を濁し、議論を避け馴れ合うことを優しさともてはやす風潮。
それに日常の中で各々が意義を唱えることなしには、うまくいかないと思えるのです。
> 政治や社会だけの変革というより、特権を持つ者の意識を改革すること、または、現在教育を決定する特権を持つ者から特権を奪い取ること。それでしか、教育の変革は為されないのではないかと思うのです。
「理解してもらう」のではなく、「特権を持つ者の意識を改革する」「特権を奪い取る」ことが大事ですね。
では具体的にどうしたらよいかと言えば、valerieさんが下の方で書かれているように、
「日常の中で各々が意義を唱えることなしには、うまくいかない」
ということなのだと思います。
身近な人間関係の中で「それおかしいよ」と言い続けることも一つの手段ですし、そういう表現方法が苦手な人は、別の表現(例えば絵や音楽など)でもいいと思います。
賽の河原の石積みのように虚しく感じることしばしばですが。
ところで、別記事の「シスジェンダー」についてのコメントのやりとりを拝見しました。自分はたくさんの特権を持っている立場なのだということを気づかされました。
子どもの頃、学校のクラスメイトに対して「うちの親が…」と話しかけたことがあります。そのあと知ったのですが、その子は事情があって親と一緒に住んでいなくて、施設から通学している子だったのです。初めて、自分が特権を持った立場にあると気づかされた出来事でした。
漢字は「意義を唱える」ではなく「異議唱える」でした