セクシュアル・ライツは最後のフロンティア?
[いぬのえいがひょう] vol.084
故郷への長い道 スター・トレック4 (1986)
Star Trek IV: The Voyage Home
1960年代のSF テレビドラマ『宇宙大作戦』
“Star Trek”。
23世紀、地球人類初の試みとして5年間の調査飛行に旅立った宇宙船エンタープライズの乗員たちの冒険ではじまった同シリーズは、2009年現在までのあいだに、6本のテレビシリーズと、11本の劇場映画が製作されています。
これは、その劇場版第4作。
地球に接近した謎の探査船が発する強力な電磁波のため、大気がイオン化され地球環境のバランスが崩れてしまいます。
何のために地球にやってきたのか。探査船は地球人類からの問いかけには一切答えません。
その頃ちょうど地球へ向かっていたカーク、スポック、マッコイら、もとエンタープライズのクルーたちは探査船の発する信号を解析し、それが23世紀には既に絶滅していたザトウクジラの鳴き声に酷似していることに気づきます。
探査船は宇宙から継続的にザトウクジラとの交信を行っていましたが、交信が途絶えたためザトウクジラの身を案じてやって来たのではないかという仮説を立て、そうであるなら探査船と対話ができるのはザトウクジラだけだと踏んだカークたちは、時間の壁を越え、ザトウクジラが絶滅する前の20世紀末の地球へ向かいます。
そこから先は、20世紀を知識でしか知らなかったカークたちが巻き起こすコミカルなドタバタ劇の楽しさで、この作品は旧シリーズからのファンでなくても存分に楽しめる作品になっています。
鑑賞者が帰属意識を持つ社会や文化においてマイノリティに位置する要素を含んだ映画が評されるときには、その要素を否定する表明がなされることが多いものです。
たとえば、同性愛者を肯定的に描いた映画には、「同性愛者は生理的に気持ち悪いとは思うけれど、作品としては…」。
コミュニズムやフェミニズムを肯定的に描いた映画には、「イデオロギー的には賛同できないけれど、作品としては…」。
そこでは否定の理由が述べられることはまずありません。
この映画を日本人自認者が評する場合によく否定的に言及されるのは、映画に含まれている、鯨を保護すべきという主張です。
「食用捕鯨を行っていた日本人としては食用捕鯨反対の主張を認めるわけにはいかないけれど、シリーズ中で一番面白い映画だ」
そこには必ず、「日本人として」という自己紹介が入ります。
自分が帰属する日本への忠誠が表明されるのです。
食用捕鯨が正しく、食用捕鯨反対が間違っているのだとしたら、その理由を述べて主張すればいいだけのことです。
批判者がどこの国民であるかは、その事柄の正誤とは関係ありません。
日本への帰属に限らず、「~として」という言い回しは、主張の理由を述べずに済ます効果があります。正当性の証明を行うことなく、正当性を印象付けるのです。
スター・トレックでは、人間型の異星生物が登場することが多いですが、人間とは異なった形状の生物との共存が描かれることも珍しくありません。
宇宙大作戦
『地底怪獣ホルタ』 では、ある惑星で人間たちが鉱物の採掘を行っていましたが、怪獣ホルタが出現し採掘を妨害しはじめます。そこへ駆けつけたエンタープライズのスポックは、精神融合によってホルタとの意思疎通を図ります。ホルタは、突然あらわれた未知の生命に怯えながらも、真意を明かします。人間の鉱山採掘がホルタの卵を傷つけており、絶滅の危機に瀕したホルタは自衛のために人間を襲っていたのでした。そして、善良なホルタは、人間たちと共存を希望します。
『故郷への長い道』の場合は、人間を危機に陥れるのはザトウクジラ自身ではなく探査船ですが、ホルタをザトウクジラに入れ替えた形での対立関係を持った物語です。
今回も、スポックはホルタにしたのと同じように、20世紀の水族館に住むザトウクジラと精神融合による意思疎通を図ります。
ホルタの場合は受け入れられても、ザトウクジラの場合は受け入れられないのが日本人なのでしょうか。
ホルタ保護を認めながらザトウクジラ保護を認めないというのは非論理的です。
わざわざ日本人であると自己言及し、それを主張の理由とするのは、「日本人は日本の批判をするものを認めてはならない」という考え。
自国をより良い国にしたいという愛国心ではなく、内容の是非を問わずとにかく、自分の国を擁護するという国粋主義なのです。
同性愛者が描かれた映画に対する同性愛者否定も同じことのように思えます。
「同性愛映画を褒めていても、自分は同性愛者ではないから偏見を向けないでね」という、偏見からの逃げであるだけではなく、異性愛に忠誠を誓い、内容の是非を問わずとにかく、異性愛を肯定しますという迎合なのではないでしょうか。
コミュニズムやフェミニズムの否定に関しても同様。
それらは、強いものの機嫌を取り弱いものを叩く卑怯者であるという表明でしょう。
ところで、この映画の中で、描写が均衡を欠いているのではないかと思えた点があります。
23世紀からやって来たカークたちは、20世紀の人間と接触する際は、なるべく歴史の改変を行わないように気を使います。
映画は、その気の使い方をうまく笑いの要素に転じながらテンポ良く展開していきます。
しかし、人間と接触するときには歴史改変の危惧に触れているのに、ザトウクジラとの接触の際には、そこに全く触れていないのです。
人間との接触にだけ気をつければ影響はない、歴史を作っているのは人間だけだとでも言っているようです。
ここは、人間優位の考えに引きずられてつい見落とされた点のように思えます。
製作時の条件によって、想像力の限界があるのでしょう。
新スター・トレック
『両性具有ジェナイ星人』 では、ジェンダーの虚構性を扱いながらも、性の越境を特殊なものと扱うことで、問題提起を台なしにしてしまいました。
これは、送り手の想像力の限界だったのでしょうか。
スター・トレック
ヴォイジャー 『限界速度ワープ10』 では、現在の地球とは異なる環境で現在知られている人類とは全く異なった形状に人類が進化していく姿を描き、人類の信じる種としての優位性が環境によって規定された優位性に過ぎないことを示唆する作品でした。しかし、異なる進化形態の行き着いた姿が、巨大なサンショウウオのようなコミカルな見た目だったため、ファンから不評を買っています。
見た目の印象をどう感じるかも文化的影響下にあることまで触れることで釘を刺していたなら、多くの評価は変わったかもしれません。
これは、受け手の想像力の限界だったのでしょうか。
どこまで人類を越えた客観性を突き詰めれば作品が商業的に丁度良いか。
どこまでが不可能で、どこまでが可能か。
その境界線は時代の想像力が定義し続けます。
しかし、『スター・トレック』はそもそも、はじめからその定義を越えて誕生したものでした。
1960年代。アメリカのドラマでは、黒人や女性が第一線の職業に就いている姿を描くことなどは、不可能とされていました。
そんな時代に『宇宙大作戦』は、一切の差別がなくなった23世紀が舞台という設定で、エンタープライズの通信士として黒人で女性のウフーラ(日本語版ではウラ)を登場させました。
ウーピー・ゴールドバーグが、テレビで観ていたウフーラに勇気づけられ、俳優の道に進んだ話も有名です。
この映画の題名「故郷への長い道」
“The Voyage Home”の通り、二世紀のあいだ地球に不在だったザトウクジラは故郷である地球へ帰ってきます。
一方、エンタープライズのクルーたちにとっての故郷は、生まれ育った惑星ではなく、常に未踏の地を目指してゆく宇宙船エンタープライズでした。彼らは、自分の故郷もまた、自らの意思で選択します。
スター・トレックはそのように、その時代の想像力を越える意思を持って製作されているようです。
それに学ぶならば、「日本に生まれたから故郷は日本の日本人。日本人だから、捕鯨反対は不快」ではなく、「日本に生まれても故郷はエンタープライズ」ではないでしょうか。
宇宙大作戦
『惑星セロンの対立』 に登場する惑星上では、顔の左が白色で右が黒色の種族と、左右逆のカラーリングの種族とが互いに、いわれのない偏見を向けあっていました。
当事者たちは肌の色が存在価値の有無を決定づける重大な違いだと確信しているのです。
エンタープライズのクルーたちは、どちらの種族も似た見た目だと感じ、彼らがつまらない差別意識に縛られていることに呆れ果てます。
黒白の肌と白黒の肌の差異を気にするのはナンセンス。
では、肌全体の色の差異は? 血統の差異は? 居住地の差異は? 国籍の差異は?
そして、性自認や性指向を含む、性に関する差異における差別問題は、人類最後の人権問題と呼ばれます。
しかし、他の差別問題と闘いながらも、性差別に気づかなかったかたがいたように、もしかしたら性差別までは意識的なかたにもまだ、気づけていない根源の差別があるかもしれません。
可能、不可能の最後の線引きはどこまで行けるでしょう。
「宇宙。それは最後のフロンティア。そこには人類の想像を絶する新しい文明、新しい生命が待ち受けているに違いない。これは人類最初の試みとして5年間の調査飛行に飛び立った宇宙船USSエンタープライズ号の脅威に満ちた物語である」
─ 『宇宙大作戦』のオープニング・ナレーションです。
スター・トレックに登場するロミュラン人は、自民族への帰属を重んじる暴力的な侵略種族です。一方、バルカン人は、ロミュランと同じ民族的起源を持ちながら、帰属よりも論理を重んじることで恒久的な平和を達成しました。
バルカン人は、彼らの社会の基本理念として、IDIC (Infinite Diversity in Infinite Combinations) という考えを採用しています。
「無限の多様性の無限の共存」とでも言いましょうか。
無限の可能性に、終わりはないかもしれません。
時代の想像力の制約の中でも、海原を見渡して鯨を、星空を見上げて地球外生命を想像してみれば、地平線の果て、宇宙の果てに、または、すぐ隣にいる誰かの内に、まだ知らない世界が見えてくるかもしれません。
いぬ、知っていますか?
あ! そうそう! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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