ぐったりする6月
[名前はまだない 027]
「異性愛者への12の質問」について
ここ数日、ちゃんと睡眠がとれていません。寝る時間がないわけではなく、布団に入っても眠りが浅かったり、何度も目が覚めたりして、熟睡できない感じ。疲労感。もしかしてわたしもこちら(のコメント欄)とかこちらとかとリンクしてるのかしら。
usokiさんが、くだんの事件について掘り下げています。
chikirinさんが、アメリカ主導型経済崩壊について、連続ドラマをのんびり鑑賞する感じで、わかりやすく書いています。が、個人的にはDJ Nofiaさんの一連のブログのほうがはるかに身に迫るものがあります。
これは、勝間和代公式ブログ:私的なことがらを記録しよう!!のパロディで、基本エロネタ満載の劣情ブログなんですが、なかなかウィットが利いていて面白いです。真相とか、福原愛はセックスをしているのかとか。
さて、ここからは表題の「異性愛者への12の質問」について(詳細を知りたいかたはここらへんを手がかりに自力で探してみてください)。
Mサキがさらっと訳した異性愛特権リストはでてきたのに、Ry0TAさんが邦訳・紹介したシスジェンダー(非トランスジェンダー)特権チェックリストについてはだれも触れてなかったですね。異性愛も同性愛もシスジェンダーであることにどれだけ無自覚か、ということが感じられます。
わたしが気になったのは、異性愛を自認するかたがたの「批判に対する耐性の低さ」。既得権益を脅かされるような気がするんですかね。自分の身に降りかかるものがなにもないときにはいかにも寛容な態度をとるのですが、批判を向けたら途端に攻撃態勢をとる。特に、「LGBTフレンドリー」を標榜しているかたによく見受けられます。「こんなに理解していて支援しているのに、どうして異性愛者を十把一からげにして非難するの? そんなんじゃわかってもらえないよ!」というわけです。こちらは「わかってもらう」ことなど求めていないんですけどね。
個々の異性愛者ではなく、異性愛主義/異性愛規範がムカつくよね、という話をしているのに、聞き手である異性愛者は個人と規範の区別が難しいようです(それほどべったり癒着しているということ?)。規範を批判すると、聞き手個人は「それに乗っかっている自分が悪い」と攻撃されたように感じるのでしょうか。「理解者」の前では、非異性愛者は差別構造に関する不平不満をこぼせないようです。だったらなんのために「自分はLGBTの味方です」と名乗るんでしょうかね。味方であればこそ、非異性愛者の不満や怒りにも耳を傾けられるのではないかと思うんですが。
そういうモニョリを端的にあらわした引用をふたつご紹介。
[…]マイノリティがマイノリティであることを表明し、マジョリティに「受容」を求めているうちは許容される。しかし、双方が乗っている規範そのものを問いはじめた途端、「良心的な」マジョリティは、自分の利害を照らし合わせ、その行為に「過激だ」とレッテルを貼る。様々な課題に、そのような図式があるような気がする。
堀江有里『「レズビアン」という生き方—キリスト教の異性愛主義を問う』
「寛大さとは、なし崩し的態度であり、家父長制のトラップなのだ」といったレイモンド(ジャニス・レイモンド。『トランスセクシュアル帝国』の著者—引用者注)の批判に対し、「寛大さは決して受動的態度ではない、このうえなく能動的態度だ」とカリフィアは反撃する。「人それぞれだよね」などという一見「寛大」な態度ほど、真綿で首を絞めるように人を追い込むものだ。真の寛大さとは痛みをともなわずに達成できるものではない。親兄弟を殺されてなお「ユダヤ人も人それぞれだよな」と言えるアラブ人がいたら、そのなんと勇敢なことか!
パトリック・カリフィア『セックス・チェンジズーートランスジェンダーの政治学』訳者あとがきより
「LGBTフレンドリー」であることを表明するかたがたからわりとよく発せられるコメントとして、「愛の形は人それぞれ」「あなたが男か女かなんて気にしない」というものがあります。これは自らの寛容さの表明だと思いますが、口ではそう言っていても、いざ自分の寛容さが試される場面に直面したら、感情がどうしてもついてこないということはありえます。「寛容でありたい」という理想を掲げるのは結構なことですが、異性愛主義批判をすれば途端に不寛容な態度をとるわけです。「寛容」とは、庇護や受容を求めてくる者に対してのみ都合よく採用される態度なのでしょうか。上記二つ目の引用は、「表面的な寛容さ」の欺瞞を指摘しています。
女性とLGBTがメインのコミュニティに関わりつづけているヘテロ男性の話を聞く機会が最近ありまして、かれはメンバーから自分のヘテロ男性的表象のありかたを辛辣に批判され、セクシュアル・ディスオリエンテーションを味わいつづけてきました。もしもわたしがかれの立場だったら、とっくに逃げ出しているのではないかと思うのですが、かれはそれでもその場に踏みとどまりつづけています。どうしてその場に居つづけることができるのかと尋ねたら、「当事者性とは、本人が逃げたくても逃げようがないこと。自分はいつでもそこから出ていくことができるけど、相手はそうじゃない」。だから、かれにできることは「その場に踏みとどまりつづけること」なのだと言います。
さきほどわたしは「わかってもらうことなど求めていない」と書きました。「理解」と「承認」は別物です。「わたしはあなたを受け入れます」という個人的な理解は、はっきり言ってどうでもいい。必要なのは、社会的承認です。「自分は同性愛者なんて気持ちが悪くて虫酸が走るほど嫌いだが、それでもやつらはほかのひとびとと同じように平等に扱われるべきだ」と主張し、ホモフォビアに根ざす差別構造を是正する活動に与するひとがいれば(いないと思うけど)、そのほうがはるかに「寛容」であると思います。これは極端な例だとしても、たとえば身の回りのホモフォビックな言動に見て見ぬふりをしておきながら、「わたしはあなたを理解しますよ」と言うのは単なる自己陶酔でしょう。マイノリティは、「理解者」の自己陶酔を満たすための道具ではありません。
マイノリティを支援するということは、当事者に向かって「あなたを理解します」と訴えることではなく、差別者に向かってその差別や偏見と闘うことです。そうすれば、「あいつはオカマやヘンタイの仲間だ」と見なされて、そのひと自身にも差別や偏見が向けられるかもしれません。そうなったとき、支援者はもうすでに支援者ではなく、当事者なのです。
追記:
痛みを与える「力」の正体について(As a Rainbow)
coochinさんが、「異性愛者への12の質問」をめぐるやりとりについて書いています。自分の言いたいことを言うために12の質問を取り上げたわたしと違い、問題のありか、すれ違いのポイントを仔細にとらえています。敬服。
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>Mサキがさらっと訳した異性愛特権リストはでてきたのに、Ry0TAさんが邦訳・紹介したについてはだれも触れてなかったですね。
>異性愛も同性愛もシスジェンダーであることにどれだけ無自覚か、ということが感じられます。
異性愛特権について触れるならば、シスジェンダー特権についても触れることが、政治的に正当であるということですね。
トランスジェンダーというものを知らなかったのなら触れなくても仕方がないかもしれませんが、誰も知らなかったとはとても思えません。
LGBTという言葉がありますね。セクシュアル・マイノリティの中で、特に知名度の高い4種。その中にもTが入っているくらい、Tは有名です。
トランスジェンダーを知っていながらそこに触れずに済ますことは、シスジェンダーの特権の行使です。
「特権リスト」についての話をしながら、特権を濫用しています。
ところで、最近私があなたに送った、これから先の分のえいがひょう原稿内で、シスジェンダー(非トランスジェンダー)になぞらえ、シススピーシー(非トランススピーシー)特権について触れました。
ミヤマさんの校正が終わっている以上、あれは当然、お読みですよね?
ということは、知らなかったわけではありません。
ここでミヤマさんが、シスジェンダーの特権に触れシススピーシーに全く触れていないのは、シススピーシーのおぞましい権力性に寛容であることを、感じられました。
この記事もまた、「特権リスト」についての話をしながら、特権を濫用しています。
>いぬさま
コメントありがとうございます。
確かにわたしはあなたからシススピーシー(非トランススピーシー)特権について触れたえいがひょう原稿を読みました。そして、それが人間の傲慢なシススピーシー性(人間であることの特権)を暴き立てるものであることは知っています。
けれども、まだ公開していないえいがひょう原稿をここでフライングするのはやめておこうと思いました。いずれ『いぬのえいがひょう』でそのことに触れられますよ、と予告したほうがよかったんですかね。
この記事は、とりあえずこの記事(とリンク部分)で完結していますよね?
一旦記事は完結しているというのに、デルタG全体の枠に広げて判断するのですか?
それが妥当であるなら、インターネット全体の枠の中には、シスジェンダー特権チェックリストが存在している以上、異性愛特権リストに触れシスジェンダー特権チェックリストに触れないことにも問題はありません。
ですが、この記事の該当箇所は、単にシスジェンダー特権チェックリストを紹介しているわけではなく、「どれだけ無自覚か」と指摘している以上、異性愛特権リストに触れてシスジェンダー特権チェックリストに触れないことに、否定的な評価を下しています。
もとのテキストの書き手はトランスジェンダーを知っていても、「シスジェンダー特権チェックリスト」を知らなかったかもしれません。
その可能性があってもなお、否定的な評価なのは、知らなかった、または思い浮かばなかったこと自体が、無自覚さだということでしょう。
「シススピーシー特権チェックリスト」という表現では、私の他に使っているものはないかもしれませんが、人間であることの特権を暴いた言説は、ネット上に他にも存在しています。
(詳細を知りたいなら犬を手がかりに自力で探してみてください)
なので、ミヤマさんがここにそれを書いたとしても、インターネット全体としては、フライングではありません。
インターネット全体の枠は適当ではなく、デルタGの枠を適当な枠と考えるとしたら、それは運用者の都合にすぎません。
この記事を読んだかたが、デルタGの他の記事すべてに目を通すとは限らないでしょう。
とはいいつつ、こうしてコメント欄を使ってシススピーシー特権にも触れた今の段階ではもう、「触れていない」というこの問題はもう解決していますね
>いぬさま
解決したなら、それは良かったですね。
わたしは確かにシススピーシーの特権に与ってはいるだろうけれど、「濫用」するほどの力はないですよ。
>もとのテキストの書き手はトランスジェンダーを知っていても、「シスジェンダー特権チェックリスト」を知らなかったかもしれません。
12の質問をとりあげた「はてなハイク」では、「シスジェンダー」というタームは何度か登場しています。また、「シスジェンダー」で検索すれば、googleではトップから2番目に「シスジェンダー(非トランスジェンダー)特権チェックリスト」が登場します。
この記事を書いたのはわたしですが、はてなハイクにはじつに大勢のかたがたが参入していました。「知らなかった」というよりも、「シスジェンダー」であるとはどういうことか、だれも興味が向かなかったのだろうと思います。
あーミヤマさんだ!とか言って先月中頃にこちらを見つけて、
こっそりブクマしていたnosumaと申します。
タフマンが好きでした。
ワタシは
体型も生まれつきジェンダーアトリビューションの【企画外】なので、クエスチョニングの【中】のクエスチョニング、
クエスチョニングの【外】のクエスチョニングですw
こんな面白いサイトがあったんですね、気が付くのが
遅すぎ。。。
>わたしは確かにシススピーシーの特権に与ってはいるだろうけれど、「濫用」するほどの力はないですよ。
これを他の差別問題に書き換えてみましょうか。
わたしは確かに異性愛の特権に与ってはいるだろうけれど、「濫用」するほどの力はないですよ。
わたしは確かにシスジェンダーの特権に与ってはいるだろうけれど、「濫用」するほどの力はないですよ。
特権に与ってはいる。それ自体が、「濫用」する力がある、どころか、まさに濫用している、ということでしょう。
>たとえば身の回りのホモフォビックな言動に見て見ぬふりをしておきながら、「わたしはあなたを理解しますよ」と言うのは単なる自己陶酔でしょう。
たとえば身の回りの人権擁護つまり人類の価値を絶対視する言動に見て見ぬふりをしておきながら、「わたしはあなたを理解しますよ」と言うのは単なる自己陶酔でしょう。
↓
>確かにわたしはあなたからシススピーシー(非トランススピーシー)特権について触れたえいがひょう原稿を読みました。そして、それが人間の傲慢なシススピーシー性(人間であることの特権)を暴き立てるものであることは知っています。