人権という差別思想
[いぬのえいがひょう] vol.088(最終回)
エレファント・マン (1980) The Elephant Man
19世紀末のロンドン。
全身の骨格が変形し、頭部と右腕が肥大し、皮膚のほとんどが腫瘍で覆われていたジョン・メリックは、見世物小屋でエレファント・マンと呼ばれ、檻に閉じ込められ、鞭で打たれ、見世物にされていました。
ある日、メリックのことを知って衝撃を受けた大病院の外科医トリーブスは、メリックを研究材料として見世物小屋の座長バイツから引き取り保護します。
メリックを知っている誰もがずっと、メリックには知性が存在しないと思い込んでいました。
しかし、トリーブスは、メリックがキリスト教の聖書を熱心に読み、口唇の腫瘍のため発声が困難でありながらも、すらすらと詩篇を暗誦する姿に触れ、メリックが豊かな知性の持ち主であることに気づきます。
そんなメリックのことが新聞に報じられると、メリックの境遇に同情した上流階級のかたがたが、こぞってメリックを気にかけるようになります。
それまで経験したことのなかった優しい扱いにメリックは感謝します。
しかし、商売道具である「エレファント・マン」を騙し取られたと逆恨みした見世物小屋の座長バイツによってメリックは病院から誘拐され、また檻の中に監禁されてしまいます。
見世物小屋から逃げ出した裏切り者としてバイツから暴行を受け瀕死の状態になったメリックは、見世物小屋の仲間に助けられて、なんとか逃げ出します。
病院へ向かう途中、メリックは、好奇の目を向ける街の人間たちに迫害され、地下道に追い詰められ、叫びます。「私は人間だ。動物じゃない」
メリックは、キリスト教を敬虔に信仰していました。
フリードリッヒ・ニーチェは、キリスト教はルサンチマンであるとして非難しました。
ルサンチマンとは、社会的弱者が強者を妬む感情のこと。
強者の権力を妬むがゆえ、強者をと権力から引き摺り下ろし、弱者である自分がその権力の座につきたいと願うこと。
キリスト教はそのために、道徳的価値観を設定したのだとニーチェは言います。
道徳的価値観の中では社会的に弱者である自分たちのほうが強者になれます。
「悪い者に手向かってはいけません。 あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」
暴力をふるう権力者に対しての非暴力は、道徳的価値観の中でならば価値を獲得し、権力関係を逆転するのです。
マタイの福音書にあるこの記述とよく似た言葉が、差別やいじめの被害者に対して語られることがあります。
「差別やいじめをする側のほうが、世界観の狭い愚かな者なのだ。あなたのほうが正しいのだから、加害者を秘かに軽蔑していればいい」というアドバイスです。
これもまた道徳的価値観の中で加害者への復讐を果たすことで、被害者を慰めるのです。
そう考えることで弱者は心理的に慰められるかもしれません。しかしその慰めは、実社会での権力関係を見て見ぬふりを決め込むことから目を逸らす言い訳でもあります。
慰めが慰めだけで終わるなら、弱者の姑息な言い逃れのレトリックに過ぎません。
強者の権力の温存に協力しながら、弱者としての権力も持つのです。
おいしいところだけをつまみぐいするという、卑怯な真似をしているのです。
ニーチェが非難にも一理あります。
しかし、道徳的価値を言い訳としてのみ用いるのではなく、現実において行動を起こし強者の権力の転覆を図る指針とするならば、話は別ではないでしょうか。
ルサンチマンが、強者に抵抗しない言い訳ではなく、強者に抵抗する思想となるならば、ニーチェの非難を逃れるのではないでしょうか。
そして、人権思想はキリスト教のこの点と大変よく似ています。
人権運動には、ふたつの方向性があります。
ひとつは、被害者の権利を守る運動。弱者への慰めです。
運動が弱者保護のみを目的とするならば、ニーチェの非難は人権運動に対してもそのまま妥当に当てはまるでしょう。
おいしいところだけをつまみぐいしているのです。
もうひとつの方向性は、加害者への抵抗運動です。
これがあってはじめて、人権運動はつまみぐいの卑怯さを逃れます。
メリックは、「私は人間だ。動物じゃない」と叫び訴えました。
これは、「私は人間です。よろしくおねがいします」という、単なる自己紹介ではありません。
「これはペンです」と言うときそれは、ペンという物体の価値、無価値を語っているのではありません。
しかし、「私は人間だ」の場合は、暗黙に「人間は尊重されるべき存在だ」という思想が共有されていることを前提にしているのです。
「人間は尊重されるべき存在だ」という思想。それは、現在、人権思想と呼ばれています。
メリックが叫んだのは、人権思想です。
「私は人間だ。価値のない動物とは違う」
これとまったく同じ理屈は、人間の枠組みより下位のカテゴリーにおいても、よく見受けられます。
「私は白人だ。価値のない有色人種とは違う」
「私は健常者だ。価値のない障害者とは違う」
「私は○○国民だ。価値のない××国民とは違う」
「私は○○教徒だ。価値のない××教徒とは違う」
「私は資本主義者だ。価値のない共産主義者とは違う」
「私は有職者だ。価値のない無職者とは違う」
「私は男だ。価値のない女とは違う」
「私は男だ。価値のないオンナオトコとは違う」
「私は男だ。価値のないホモとは違う」
「私は女だ。価値のないレズとは違う」
「私は女だ。価値のないオトコオンナとは違う」
「私は性欲がある。価値のないAセクとは違う」
「私は彼氏/彼女を作れる。価値のない非モテとは違う」
他にも膨大な例がありますがそれらはすべて、「私は尊重されるべき存在だ。尊重される価値のない他のものとは違う」という考えです。
そしてこれが、差別と呼ばれるものです。
差別は、自身の帰属するカテゴリーの価値を妄信することによって過剰な自尊心を得ることが目的です。
その自尊心の設定は、自己と他者を洗脳し尽くし、互いに洗脳しあうことで成し遂げられます。
その自尊心には理由が述べられません。とにかく、そうと決まっているのです。
捏造した価値を、自分たちの帰属するカテゴリーに付与するのです。
真実ではない嘘を、真実だと言い張って押し通すのです。
差別者は、真実と呼ばれる嘘を用いて、自尊心という不当な利益を得ます。
差別者は、真実と呼ばれる嘘を共有することで、集団の権力の一部になるという不当な利益を得ます。
差別者は、真実と呼ばれる嘘を用いて社会制度を構築することで、社会的に優遇されるという不当な利益を得ます。
他カテゴリーを蔑視し迫害することは、そのための手段にすぎません。
差別の不当性の根拠は、嘘を真実と語る、詐称にあります。
差別とは要するに、嘘をつくことなのです。
メリックが知っていたらきっと支持したに違いない人権思想は、そういった差別に反対する思想としてよく扱われます。
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
(世界人権宣言 第一条)
しかしこの宣言も、人間が「生れながらにして自由」であること、「尊厳と権利とについて平等」であること、「理性と良心とを授けられて」いること、それらの検証を全く行っていません。証明を放棄し、そう妄信しているだけです。
人権思想がその正当性を語る基盤は、差別思想のそれと全く同じ構造なのです。
差別思想とは、「私は尊重されるべき存在だ。尊重される価値のない他のものとは違う」というもの。
尊重されるべき理由は、「そう信じるから」というだけです。
もっともらしい理由によって、正当化することもありますが、根本には、理由などない絶対的な価値の妄信があります。
メリックの言った「私は人間だ。価値のない動物とは違う」という人権思想。
これもまた、差別思想のひとつなのです。
キリスト教を信仰しているメリックは、自分が神に価値を認められた人間であることを、存在の拠り所としていたのかもしれません。
病室で暮らしながら、キリスト教会の精巧な模型を作っていました。
その模型は、メリックから神への愛を込めた返答だったのでしょうか。
模型という「像」の形を与えると、信仰は認識しやすくなるのでしょう。
設定された価値観は、「像」を作ることで、象徴として崇拝しやすくなります。
国家帰属という権力概念は、国家という象徴的な「像」を設定することで維持できるようになります。
家父長制という権力概念は、家族という象徴的な「像」を設定することで維持できるようになります。
そして、人権というものも、人間賛美という権力概念のための象徴的な「像」なのです。
もちろん、人権思想も差別のひとつであるからといって、人権思想が非難する他の差別を肯定することは論外です。
ある民族的被差別者の多数の実像が、男尊女卑だったとしても、それをもってその民族への差別が肯定されるはずがありません。
けれども、その民族が「私たちは、私たちを差別するあなたたちと同じく男尊女卑を信じている。あなたたちと同じだ」と語り、それを差別反対の根拠とするのであれば、そこに正当性はありません。
その根拠こそがまさに、差別なのです。
男尊女卑を掲げた差別反対の言説は、それ自体が差別行為なのです。
ある宗教が同性愛者蔑視をしているからといって、その宗教徒であることを理由に差別をしていいはずがありません。
けれども、その宗教徒が「私たちは、私たちを差別するあなたたちと同じく同性愛者ではない。あなたたちと同じだ」と語り、それを差別反対の根拠とするのであれば、そこに正当性はありません。
その根拠こそがまさに、差別なのです。
同性愛者への偏見を掲げた差別反対の言説は、それ自体が差別行為なのです。
ある人間が人間を自認しているからといって、人間であることを理由に差別をしていいはずがありません。
けれども、その人間が「私たちは、私たちを差別するあなたたちと同じ人間だ。あなたたちと同じだ」と語り、それを差別反対の根拠とするのであれば、そこに正当性はありません。
その根拠こそがまさに、差別なのです。
人権を掲げた差別反対の言説は、それ自体が差別行為なのです。
ボーヴォワールは、自著『第二の性』で、「人は、女に生まれるのではない、女になるのだ」と言いました。
人は、女や男に生まれるのではありません。
ジェンダー規範という「像」を用いて過剰に自己肯定するために、つまり、差別思想によって利益を得るために、女や男を自認するようになるのです。
人は人間に生まれるのではありません。
人間の価値という「像」を用いて過剰に自己肯定するために、つまり、差別思想によって利益を得るために、人間を自認するようになるのです。
あ! そうそう! いぬかわいいよー! いぬってすてき! わんわん!
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え?どうして最終回?(/ ;)
ああ、いぬさん。うちのゲームの企画でシナリオ担当
して欲しいなー。(無茶を言うな;;(TT)お疲れ様でした。